研究結果:ラキシのアッシリア包囲網は、このように構築された

 古代中東で知られている、世界で最古で唯一の包囲網であり、今日まで最も良い状態で残っているテル・ラキシのアッシリア包囲網の製造と構築方法を深く調査した新しい研究がなされた。この研究では、数十年前に発見された斜道の場所の地理的状況が初めて調査され、研究者達は現地の立地条件と斜道建設に必要な材料の量を解析する為にデジタル記録方法を使用した。この研究は、オックスフォード大学の考古学雑誌であるOxford Journal Of Archaelogyに、「ラキシに於けるアッシリア兵糧攻め斜道の建設;テキスト、図像学、考古学とデジタルマッピング」という題名で掲載された。

 この研究には、エルサレムのヘブライ大学考古学研究所から様々な使節団が参加し、ヨッシー教授を筆頭に、ミシガン州オークランド大学のマデラン博士、ジョン教授とマイケル博士が参加した。同遺跡では過去に幾つかの発掘隊によって発掘されている。最初の発掘隊は1930年代と60年代であった。

 現地の最初の発掘作業から生き残った斜道の最初の記録は、1932年末からの写真である。この写真では、遺跡の西南の角のテル付近に位置する急斜面の丘が見られる。しかし当時、斜道は発掘者によってこのようなものであるとは知られておらず、その結果現場では、斜道を破壊するような発掘作業が行われてしまった。

 その後この場所で、テルアビブ大学ダビッド教授を筆頭とした発掘隊が、1974年から1994年の間に発掘をした。それ以前の1973年に現地を訪れた際に、前参謀長官で考古学者であったイーガル・ヤディン教授は、遺跡の西南のなどの石の山は、アッシリアの包囲斜道の遺跡であるかも知れないと語っている。ダビッド教授の発掘によってそうであることが証明された。

 ヘブライ大学ヨセフ教授を筆頭とした4回目の発掘隊は、2013年から2017年に発掘をし、様々な観点から調査して軍事斜道建設に新しい光を投げかけた。

 アッシリア帝国は、紀元前9世紀から紀元前7世紀の間に、中東やエジプトの殆どの場所を支配していた。アッシリア帝国は、紀元前722年に北イスラエル王国を占領し、サマリアを破壊した。アッシリア軍は効率的な軍事技術と戦略を開発し、全ての先頭に勝利し、又は要塞都市を占領することに成功した。紀元前701年にアッシリアのセナケリブ王は、ヒゼキヤ王の時代にユダ王国で起きた反乱を鎮圧するため、大軍を率いて出発した。この事件で最も突出したのがラキシ都市の占領である。ラキシは紀元前2千年から発展したカナン人の町であり、紀元前10世紀末から紀元前6世紀までにユダ王国で2番目の重要な町であった。この遺跡でアッシリア軍によって建設された包囲斜道は、現場に残された唯一の実体的なサンプルで、当時の都市占領方法を語っている。

 ラキシ占領事件に関しては、異なる4つの文献が残っており、旧約聖書で数個(列王記下18~19章、歴代誌下32章、イザヤ書26~27章)、ニネベの町のセナケリブ宮殿の王室を飾っていた大きな石碑に記されたセナケリブ碑文、様々な発掘隊によって行われたラキシの研究などである。

 アッシリアの戦闘方法は、町の城壁に戦車を近づけることであり、戦車の中には大きな丸太がぶら下がっており、「頭突きのシカ」と呼ばれていた。頭突きのシカ(破城砲)は、揺れながら町の城壁を何度も打ち付け、城壁が崩されて開口部が出来たところを、アッシリア軍が城内に攻め入っていた。ラキシの城壁は、テルの高い部分に出来ていた為に、アッシリア軍は斜めの道を建設し、テルの麓から城壁の上にまで作り上げた。この建設方法は、計算され、戦略的になされ、主に正確に専門的に建設されたことが理解できる。

 今回の研究の疑問は、この斜道がどのように建設されたのか、またこの斜道建設に必要であった材料は何処からもたらされたのか、であった。この研究の結果は、斜道は遠い地点から建設され、町の城壁に近づけば近づくほど高く作られていった。車道は約3百万個の石から建設され、全重量は約2万トンと想定されている。石1個の平均重量は約6.5㎏(この重さならば、斜道を建設するのに手でも持ち上げることが出来る)であった。石は近くの丘から切り出され、その場所は今日でも切り立った崖のようになっている。石切り場から斜道まで人が1列に並び、石は手渡し作業で運ばれ、町に向かって投げられていった。研究者達の想定によると、毎日約16万個の石がこの方法で運ばれたとされている。

 斜道の先端には大きな盾が置かれ、建設が進むと盾も前に進められた。このように斜道建設者達は、町から撃たれた弓矢や投石から盾によって守られていた。

 アッシリア軍は、このような斜道建設に、1日24時間労働によって約3週間で完成させていた。「時間がアッシリア軍にとって最重要であった。数百人が、2交代制か3交代制で昼夜石を切り出し、それを運んでいた。労働力は戦争の捕虜によって提供され、又は現地の人達への強制労働によって提供されていた」と記事には記されている。

 斜道の表面を覆っていた床に関する現場からの重要な情報もある。床には長い物体が3層になって作られていた。「隣同士に置かれた木の板であり、地面から遺跡の麓、麓から町の城壁まで、斜道の傾斜に沿って重い破城砲を押すのに容易となっていた」と記事に説明されている。それ以外にも、ラキシの包囲斜道には鉄の鎖も発見されている。このような鎖は、古代ユダ王国の他の町でもラキシでも発見されたことが無い。その為に研究者達の意見によると、斜道で発見された鉄の鎖は、アッシリア軍の破城砲の部品であるとしている。この発見により、破城砲の丸太の木が、鉄の鎖でぶら下がっていたことが証明された。

 最後にこの研究では、当時生存していた預言者イザヤの言葉に出ている2か所の聖句を注解している。イザヤ書第5章27節では、アッシリア軍の軍力が描写されている:「その中には疲れる者も、つまずく者もなく、まどろむ者も、眠る者もない。その腰の帯はほどけず、そのくつのひもは切れていない」。町の包囲斜道建設と攻撃の時でなければ、いつ24時間体制でアッシリア軍が活動するだろうか?イザヤのもう一つの予言は、列王記下19章32節に記されている:「それゆえ、主はアッスリヤの王について、こう仰せられる。『彼はこの町にこない、またここに矢を放たない、盾をもってその前に来ることはなく、また塁を築いてこれを攻めることはない』」。言い換えると、この聖句ではエルサレムの町で起きることが無いと描写されており、これによってアッシリア軍の戦闘方法を学ぶことが出来、斜道を建設している人達を守る為に、兵糧攻めにしている町へ矢を撃ち、町の城壁に近づいて行く斜道の先頭にある盾を動かし、斜道の遠い部分から石を埋めていくのは、研究者達がこの研究で結論付けた通りである。

最新記事

すべて表示

小学生が700年前のオイルランプを発見

ヘブロン山地域のスシアの学校の生徒達が、学校の勉強の一部として古代スシア遺跡の考古学発掘にこの数週間前から参加していた。発掘は、古代都市の家の一つで実施されていた。 「子供が一人何かを見つけたと伝えに来た」と、発掘席に社のアヒヤ氏は語り、「行ってみると古代のランプがあった。とても特殊な発見物であることが分かった。ランプは完全体で発見されたとても希少な物であった。この発見によって子供達は、ハヌカ祭、

エルサレムで11歳が2千年前の希少なコインを発見

第二神殿時代の約2千年前にエルサレムで商業に利用されていた、純銀製のシケルコインが、11歳の女の子によってエルサレムで発見された。 このコインは、ダビデの町国立公園の「巡礼者の道」で考古学局が実施している考古学発掘の土砂から発見された。この考古学土砂は、ツーリーム谷国立公園の水フィルタリングに送られ、フィルタリング活動に家族と参加していたリエル氏によって発見された。「土で一杯のバケツをフィルターに

ビザンチン時代のものと思われる、素晴らしい金の指輪がヤブネで発見

紫色の石がはめ込まれた素晴らしい金の指輪、ビザンチン時代末期に製造されたであろうと思われるものが、ヤブネ市拡張に向けてイスラエル土地局と市役所が企画し、ヤブネの考古学局が実施する大規模の発掘で最近発見された。この遺跡では他に、ビザンチン時代のものとしては世界最大と思われるワイン製造のワイナリーも発見された。考古学局分析研究所のヨタム博士による指輪の解析によると、石は主にシリカによって構成されており