新しい発見:マクペラの洞窟、第一神殿時代からの宗教儀式場

 マクペラの洞窟は、第一神殿時代から周期用儀式場として利用されいたという事が、アリエル大学考古学とイスラエルの地勉強学科が行った新しい研究で明らかになった。ダビデ教授を筆頭にした考古学チームが、約40年前にマクペラの洞窟から持ち出された第一神殿時代の陶器を調査し、それらの陶器はイスラエル全国からヘブロンの町に集まって来ていた人達によって使用されていたと結論付けることに成功した。

 「マクペラの洞窟は一度もちゃんと調査されていない」とダビデ教授は語った。今日まで建物はヘロデ大王時代(第二神殿時代)のものと考えられていたが、新しい調査によって「既に第一神殿時代にこの場所は、特別な宗教的役割を持っており、地理的に様々な場所からここへ参拝者が訪問していた」。

 2年間続いた調査は2020年6月にIsrael Exploration journal雑誌に発表され、自身もバルイラン大学イスラエルの地勉強修士号を有しヘブロンユダヤ人居住区スポークスマンのナアム氏と、ドイツのボン大学の化学的構成によって陶器の製造元を認識する世界的専門家のハンス教授の協力の元で行われた。1967年以降イスラエル国考古学局のユダ・サマリア地方責任者で考古学者であったゼエブ教授によって洞窟で発見され、発表された内容をベースに調査された。

 ノアム氏は、1981年に秘密裏に古代洞窟内の奥まで侵入した若者のグループの一人で、初めてそれらの宝物を発見した。「この調査ではユダ地方の様々な場所から発見された4個の陶器と人の骨が認識され、色々な地域から訪問者がいたことを証明する証拠は、この場所の重要性を更に強めることとなった」と語った。

 「宗教以外に、この場所は昔から現在まで聖書を知り、自分のルーツにつながっている人達にとっては心惹かれる場所であった。この場所はユダヤ人だけではなく、この場所を訪れるキリスト教徒やイスラム教徒にとっても重要な場所である」とも述べている。

 ダビデ教授と他の研究者達は、マクペラの洞窟が第一神殿時代から既に参拝場所とされていたと結論付けることに成功した。「最新機器や様々なテクノロジーにより、訪問者が住んでいた地域が何処であったかなどが分かる陶器の構成物質、ミネラル成分の種類、セラミック、土壌、原料の認識や調査が可能となった」。

 「洞窟内で発見された陶器は約2,700年前のもので、紀元前8世紀に製造された。数千年間残る陶器であり、原料文化や人類の歴史、誰が製造してここへ持ってきたなど多くを学べるものである。時々陶器の中に何が入っていたのかも知ることが可能で、発見できる全ての情報を分析することが出来る」とダビデ教授は語った。

 ノアム氏は、「初めてアリエル大学とドイツのボン大学の2か所の研究所で同時に岩石学的分析が行われ、陶器の製造場所を明らかにした。これらの陶器は埋葬の供え物か、ある種の聖域を表すものだという事が高い予想となっている」とも語った。

 ダビデ教授は、「発見された4個の陶器の内2個はヘブロンで製造され、その他の2個は同時代のエルサレム陶器の特徴を持っている。この発見は、マクペラの洞窟が第一神殿時代から参拝場所になっていたことを証明することが出来る」。

 研究員の一人は、「我々はまだ発見された他の陶器を研究中である」とし、現段階ではこれらの陶器がユダヤ人のものであったのかどうかは明確にできないと説明した。「とても困難な作業で、大きなパズルを構成する小さい破片を集めている。この仕事をするのはとても感激だが、インディアナ・ジョーンズの映画のようにはいかない」。

 「第一神殿時代に誰かが洞窟にやって来て陶器を残していったのは明確だ。これに関しては議論は無い。しかし今日他の発見物を見つける為に洞窟内に入ることをイスラム教徒が不可能としており、発見場所まで行くことが出来ないようになっている。これらの発見物はイサク・ホールの小さい入口から、若者たちはほふく前進してその場所まで辿り着いた。その下に発見された洞窟が存在している」とも語っている。

 この数週間朗読されている聖書の箇所はサラの人生の箇所であり、マクペラの洞窟を買う話が記されている。この記述がユダヤ民族にとって重要な場所の一つと決定し、民族の先祖達が埋葬された場所となっている。毎年百万人以上の観光客(2019年には世界中から約150万人が来た)が訪れたが、宗教的又は政治的複雑な状況から長年この場所の考古学発掘調査は行われていない。

 しかしこの場所を調査した考古学者達によると、マクペラの洞窟の建物とエルサレムの神殿の丘との建築的関連性が明確であると指摘している。第二神殿時代からの荘厳なヘロデ大王の建物は、紀元前2世紀の古代建築物の上に建てられており、洞窟の入口を覆うように建設されていることが判明している。

 「両者とも同じ建築の特性が相似しており、巨大な石を使用し、石の周りを縁取る模様、壁から出ている突出模様などでがそうである。この建物は高さ20mあった建築物で同時のまま残っており、嘆きの壁の石は色々な時代に動かされているのとは違っている」とダビデ教授は語った。

 ノアム氏は、「第二神殿時代から完全体で残っているユダヤ人の建物だ。知っている限りでは、この建物は2千年前以上の公共施設で、完全体で今日でも利用されている世界で唯一の建物であるかもしれない。この建物を見ると、破壊される以前の神殿の丘を見ていることと同じである」とも付け加えた。

 ラテン語で10世紀末にヘブロンで書かれた文書によると、638年のイスラム支配開始と共にヘブロンには小さいユダヤ人会衆があり、マクペラの洞窟近くにシナゴーグを建設したと書かれている。このシナゴーグに関しては、12世紀にマクペラの洞窟を訪れたトゥデラのラビ・ベニヤミンも記述している。

 マムルーク王朝時代(13世紀から16世紀)には入場が禁止され、ユダヤ人には南東の門の近くにあった階段の7段目までが許可された。そのように長期間ヘロデ大王の建物の床下に何が隠されているかを知ることはできなかった。

 1967年の六日戦争後に、700年以上ユダヤ人が入れなかったマクペラの洞窟への入場と祈祷が再度許可されることとなった。1968年10月には、イスラエルはマクペラの洞窟の所有権をヘブロンのイスラム教聖職者から没収し、イスラエル政府はこの場所をモスクのまま残しておくことを優先して、ユダヤ人には朝の2時間と午後の1時間だけ祈祷することを許可した。

 その数年後イスラエル市民の抗議により、イスラム教徒と同様にユダヤ人もいつでも祈ることが出来るようになった。1994年2月のプリム祭中にこの関係が崩れ、バルーフ・ゴールドシュタインが祈祷中のイスラム教徒に対して乱射し29名を殺した。その結果イスラム教徒とユダヤ人祈祷者との場所が二分され、メインホールであるイサクとリブカホールはイスラム教徒のみということになった。この場所は2017年7月にUNESCOがヘブロン旧市街とマクペラの洞窟を世界遺産として認定した。

 1981年にノアム氏は考古学冊子に発表された記事を読み、ミハル氏が12歳だった時の1968年に起きた出来事が書いてあった。「彼女の父親は国内諜報部の上層部の人で、モーシェ・ダヤンの友人であった。彼女の話によると、二人はマクペラの洞窟に彼女を連れてきて、痩せていたので狭い穴を通してマクペラの洞窟の地下に彼女を入れた。彼女はとても長いくらい洞窟を這っていき、石で塞がれた階段まで行ったと語っている。そこから先に進めず、彼女もトラウマを抱えることになったと語っている。多分当時の彼女はこの場所の重要性さまで知ってはいなかったと思う」と語った。

 この記事は瞬く間に広がり、多くの人が階段の場所まで辿り着こうと試み、その中にノアム氏と友人達もいた。「当時学んでいたヘブロン学校のガイド、教員、市民などを含んだグループを構成した。建物の下から洞窟内に入れる入口を発見し、反対側からどうすれば開くことが出来るかも発見した」。

 彼らの計画では、大贖罪日前の祈祷中に床の入口を開けることであった、「イスラム教徒にばれずに、疑いもかけられないように気を付けてた、何故なら彼らは全ての考古学調査に反対しているからだ。神殿の丘ではイスラム教徒が殆どの遺跡を破壊してしまった。何故か?それは現地での考古学調査によってユダヤ人の遺跡が発見されると、イスラム教徒の信じているものと矛盾してしまうからだ。幸運にも当時は誰も何も気づいていなかったし、現在のようにイスラム教徒とユダヤ人との境目もなかった。ユダヤ人とアラブ人はイサク・ホールで一緒に祈っていた。決行日はエルールの月の夜中零時と決まり、そこにはユダヤ人しか祈っていなかった(イスラム教徒は夜中に祈らない)のも幸運であった」とノアム氏は語った。

 「ユダヤ人祈祷者達がお祈りして角笛を吹く中、床に金づちとテコで穴をあけ、地中奥に向かっている階段を見つけた。6~7人が懐中電灯を持ち、真っ暗な穴を這い始めた。石で塞がれた場所に到着した時にテコでそれを持ち上げ洞穴の奥まで辿り着き、そこで地下室を発見した。幸運にもその地下室の床から風が吹いているのを感じ、その下にもう一つ部屋があると理解した。床の石を持ち上げてみると岩をくり抜いたトンネルが現れ、皆興奮の絶頂に達していた。そのまま這い続けたが、その場所がマクペラの洞窟だった。そこに2か所の空間があったので認識出来た。外側の洞穴から内側の洞穴に移り、突然人間の骨の中を這っているのに気が付いた。当時は義人の墓の近くに埋葬されることが習慣でもあったからだ。皆ショックでおののいていた。マクペラの洞窟に入った者が戻ってこなかったという噂も聞いていたし知っていた。しかし科学的な興味が全てに勝った。そのままほふく前進し、今調査されている陶器を発見し、このようにマクペラの洞窟を発見した」と語った。

 考古学者達の公式な使節団が、軍人達にアテンドされて洞窟に入ったのはその約1か月後であった。その使節団には考古学局の故ゼエブ学者とドロン学者がおり、彼らが調査プロジェクトに許可し、洞窟や発見された陶器に関しての科学的な論文を発表した。

 ワックフ(イスラム最高議会)も呼ばれたが拒否された。「彼らは現場の神秘性のせいで中に入るのを恐れた。しかしその後彼らも中に入って写真を撮ったと聞いた。その後イスラエル軍とイスラム教徒の同意と協力で入口は塞がれた。しかし洞窟に入った時の身震いや興奮は長い間忘れなかった。その場所の大きな地位と宗教歴史的意味はとても強力で、マクペラの洞窟を調査した数人の中の一人であったことに誇りを感じている。強大なものの一部であるという事を理解し、自分達のアイデンティティにも多くを与えてくれた」とノアム氏は語った。

 ノアム氏は、最新のツールと技術を備えて再度洞窟の中に戻り、色々なものを発見したいと夢見ている。「今日ではこのような岩の硬い層は無理だが地中レーダーもあるし、ロボットもある。しかし私は現実的なので、近い将来に調査のチャンスがあるとは思わないし、特に国の規制や基準がそれを可能とさせない。しかしいつか将来に変化が起きると信じている」。

 今はノアム氏も論文を書いている最中だ。「論文の内容はマクペラの洞窟を遺跡としてではなく、イスラエルの地に於けるユダヤ遺産の理解への寄付として見ており、これを無視することは不可能だ。勿論世界の他の場所でも考古学的な発見があれば興奮するものだ、しかしここは我々の家でもあり我々の場所で、ユダヤ人全員に関係したユダヤ民族歴史でとても重要な一部でもある」と語った。

 ダビデ教授は、「私には信仰心は無く、考古学的と人類学的の事柄以外に、これらの発見物は多くの人達に重要なように私にもとても重要であり、それには私がユダヤ人であろうがなかろうが関係はない。メッカだろうがインドの神殿であろうが考古学的発見物には同じ感情を持っている」と語っている。

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