政治から離れてマクペラの洞窟を訪問

 マクペラの洞窟という言葉は、殆どの人達に政治的なシチュエーション、自分達の、彼らの、占領地、入植者などを思い起こさせる。全く無政府の内容で、ガイドで古い友人であるハイム氏と沢山の興味を持って、2019年のみで80万人の訪問者が来た場所の調査と勉強に出発した。

 マクペラの洞窟とその場所は数千年の間守られてきた。この古代墓地は、伝統によるとアダムとイブ、我々の父アブラハム、イサクとヤコブ、我々の母サラ、リブカとレアが埋葬されており、国内の他の古代墓地、ダビデの墓、ラケルの墓、サムエルの墓やその他発見されたものと違い唯一その場所が確実なものとなっている。この場所は三つの一神教にとって聖地となっている。

 長年の伝説によると、アブラハムはヘブロンがアダムの埋葬地であると理解し、全額を支払ってこの場所を購入することを要求した。マクペラの洞窟は初めて創世記に出てくるが、それに関しては後述する。アブラハムはマクペラの畑を全額支払って購入した。ここで自分の愛する妻サラをどうやって埋葬したか描写されており、その後この場所にはイサクとリブカも埋葬されている。創世記第50章ではヤコブもエジプトで亡くなる前に、祖先と共に眠る為にマクペラの洞窟に遺体を運んでほしいと頼んでいる。「ヤコブの子らは命じられたようにヤコブにおこなった。すなわちその子らは彼をカナンの地へ運んで行って、マクペラの畑のほら穴に葬った。このほら穴はマムレの東にあって、アブラハムがヘテびとのエフロンから畑と共にかって、所有の墓地としたものである」。

 数千年間ユダヤ人は聖地を訪問し、一部は洞窟に埋葬されるように人生の最期に初めて訪問した。エルサレムの神殿の丘と同様に、マクペラの洞窟も聖書に記された瞬間から、ユダヤ人にとって巡礼地として代々利用され今日に至り、マクペラの洞窟は今日でも健在の世界最古の墓地である。

 この洞窟を覆っている建物は、ほぼ長方形の34m×59mで約20mの高さがある。元は巡礼者を守り、墓地洞窟の訪問を整理する目的で、中庭が付いた建物の外壁として使用されていた。この建物はヘロデ大王(紀元前37年~紀元前4年)に関連付けられており、紀元前1世紀頃と考えられている。学者達の中では、神殿の丘に次ぐイスラエルで二番目に大きなこの建物は今日でも使用されている世界最古の公共施設であり、ヨセフス・フラビウスの本にも記述されているマクペラの洞窟のこの建物が、ヘロデ大王や他の建築家の関連性に関して全く何も記述していないことに大きな疑問を抱いている。「(先祖達の)墓石は今日でもこの町で見られ、尊厳と華麗なる美しい大理石でできている」(ユダヤ人の反乱第4章)。

 建物の壁に使用されている石や削り方、石の周りを特殊に縁取るヘロデ建築スタイルは同時代のものであることは確かである。マクペラの洞窟の建物の壁を南方と西方から見ると、神殿の丘の壁を思い起こすことが出来る。この建物はハスモン王朝(紀元前163年~紀元前63年)が建設したもので、ハスモン王朝を継いだヘロデ大王は既存の建物の上に付け足したのではないかと主張する学者達もいる。勿論これを確実に知ることは不可能だ。この巨大な建物は興味深く、2千年前にヨーロッパにあった他の建物に劣らないものであり、オリジナルはイスラエル製なのだ。この建物は今日でも使用されており、右翼、左翼、信者、一般人でも皆関係なく訪れている。

 西暦333年にイスラエルの地ではビザンチン時代が始まり、「ボルドからの旅行者」という名で有名なフランス人巡礼者が、このマクペラの洞窟に関してこのように描写している。「ヘブロンから2マイル行くと、素晴らしく美しい石で出来た四角い建物の中に墓石があり、そこにアブラハム、イサク、ヤコブ、サラ、リブカとレアが葬られている」。その約200年後にエルサレムのユダヤ人地区に巨大なニア教会を建設したユスティニアヌス帝が、ヘロデ建築をベースにこの上にバジリカ風の教会を建設した。

 同時代にアントニノス・ミプヤチネッツェ(フランチェストス)という名の修道士がここを訪れ、この教会とユダヤ教徒とキリスト教徒の祈祷入場時間に関して描写している。「ベツレヘムからアロネイ・マムレまで24ミリンある。この場所にはアブラハム、イサク、ヤコブとサラ、またヨセフの骨まで埋葬されている。バジリカがその上に建設され、四角い列柱で支えられている。中庭には屋根が無く、簡易な格子が付いている。片方の入口からキリスト教徒が、もう片方からユダヤ教徒が入り、沢山のお香を焚いている」。

 7世紀(初期イスラム時代)にイスラム占領が起こり、この町のユダヤ人居住区が再建されたが、とても小さい居住区で16世紀まで途切れ途切れに存在していた。同時にビザンチン時代の教会はモスクに変わり、ユダヤ人の聖地が教会とモスクに変えられたのはここが最後ではない。これこそがシャアットネズ(異種の交ぜ織り)だが、まだまだ続きがある。

 次は十字軍が、今日まで見られる内装の輪郭の教会を再建し改築した。十字軍の次に1268年に支配したマムルーク王朝は、イスラエル全国やラムレのグレート・モスクで行ったように、この教会を二度目にモスクに変えた。十字軍時代の建物とと、マムルーク王朝時代の碑文は、アブラハムとさrのホールで見られることが出来る。これはお見逃しなく、何故なら今日まで生きて存在する三つの宗教の歴史的証拠であるからだ。時が経ってラムバム、12世紀のラビ・ビニヤミン・メトデゥラ、ベルタノーラからのラビ・オバディア達が洞窟に訪れ、一部はオリーブ山の麓に葬られる光栄を得た。

 マムルーク王朝時代(13世紀~16世紀)から1967年まで、ユダヤ教徒(とキリスト教徒)はマクペラの洞窟に入ることを禁止された。洞窟の建物の壁の南西角でユダヤ教徒は祈ることを許可され、7段目の階段までしか上れないようになっており、その上に内部に入れる入口があった。1929年にラビ・メリヨバビッチが洞窟で祈る許可を得たことがある。

 イスラエル国の第二代目大統領の奥さんとなるラヘル・ヤナイット・ベン・ツビ氏は、20世紀初頭にこの洞窟を訪れたことをこう書き記している。「マクペラの洞窟に近づいて行くと、高い壁に目が行く。階段に到着し、そこで静かに立った。許可されている7段目までは行かなかった。屈辱に燃えていたからだ」。

 この場所では今日、嘆きの壁や聖墳墓教会の入口の柱と同じように、沢山の紙が詰まっているのが見られる。伝統は伝統で、どの宗教でも似たようなものだ。

 近代史に於けるヘブロンのユダヤ人居住区は、16世紀のウマイヤ王朝から始まる。スペインから追放されたユダヤ人達で、この場所にアブラハムと呼ばれたシナゴーグが建てられた。19世紀になってユダヤ人居住区は拡大され、白人系ユダヤ人もこの地に住み始めるようになる。

 洞窟からちょっと言った場所に、ヘブロンの町のユダヤ人居住区センターがあり、ベイト・ハダッサと呼ばれるビジターセンターがある。19世紀末に建築された素晴らしい石造りの家で、1929年のアラブ人暴動事件までユダヤ人とアラブ人の病院として利用されていた。最近遺跡管理地方議会の協力により、内部の展示物が最新され、ヘブロンのユダヤ人会衆の話がテクノロジーを通じて紹介されている。

 1929年のアラブ人暴動事件では、ヘブロンのユダヤ人達が虐殺され、ユダヤ人居住区はイギリス軍によって町中から移転された。1930年代にユダヤ人居住区の再建が試みられたが、1936年からのアラブ人反乱開始で中断された。その次にユダヤ人達が先祖の町で祈り住むために戻ってくるのは1967年以降であるが、冒頭に記述した様に政治に関してはここでは語らない。

 色々な変化を遂げた2千年前の建物がここにあるが、この下には何があるのか?我々の先祖達が葬られた洞窟は何処なのか?そこには何があるのか?本当にここはマクペラの洞窟なのか?

 第三次中東戦争(六日戦争)後に、建物の地下にユダヤ人が入ったことが数度ある。1981年には、今日ヘブロンのユダヤ人居住区スポークスマンで、マクペラの洞窟研究者であるノアム・アルノン氏が、大職日前の祈祷中にイサク・ホールから友達と一緒に地下洞窟へ入って行った。このホールには古代洞窟へ入れる二箇所の入口があり、「ロウソク入口」と「キャノピー入口」と呼ばれている。

 ノアム氏はこの経験を興奮して語っており、考古学と遺産愛好家にはとても感激する内容である一方、古代建築物の下を数メートルも這っていくのは恐ろしいことであり、洞窟の中ではもっと困難である。彼の話によると、二つの洞窟がくっ付いている場所で、マクペラの洞窟であるとのこと。。1986年には、洞窟調査の目的で考古学者達と軍代表者達が二重洞窟に再び入った。この使節団は、くり抜かれたお墓で、紀元前2千年頃のカナン人時代の特徴ある墓地洞窟であると結論付けた。この使節団が出た後に、イサク・ホールにあったロウソク入口はコンクリートで封鎖され、それ以降誰も中に入っていない。スティーブン・スビルバーグにインディアナジョーンズ映画を復活させ、「インディアナ・ジョーンズと秘密の洞窟」という映画を撮影して欲しい。

 今日洞窟のセンターホールはイサク・ホールで、元は十字軍時代の教会跡であり、イスラム教徒の祈祷するモスクとして使用されており、ヘブロン条約に沿ってユダヤ人は一年で10日間だけそこで祈ることが許されている。

 1187年には十字軍から聖地を奪還したサラディンが、モスクで説教者(アラビア語でヒタブ)が立つ祈祷場所を三か所建設し、祈祷場所はミンバルと呼ばれている。一つはサウジのメッカ、二つ目は神殿の丘のエル・アクサ寺院にあったが、1969年にマイケル・ローハンというオーストラリア人によって放火され、2007年にヨルダンによって再現された。

 三つ目は1091年にアシュケロンに最初は建設されたが、ミンバルという名で碑文に記されて今日まで残されている。アシュケロンからイスラム教徒が追放された後にミンバルは秘密の場所に移転され、1187年以降にサラディンの命令によってマクペラの洞窟に移された。ミンバルは、質の高い美しい希少なダマスカスの木によって作られており、祈祷に利用されている世界で最古のミンバルと考えられている。

 今日ヘブロンは大きな都市で、約21万人の人口がある。約3千5百年前のアブラハム(カナンの時代)に戻るとすると、マクペラの洞窟から約1kmの所に国立公園テル・ヘブロン(ロメイダ)の丘があり、そこが聖書の時代のヘブロンの町で、当時はカナン人の町であった。テルには幾つかの興味深い遺跡が残っている。第一神殿時代(第二鉄器時代)の建物の隣には、最近一般公開された第二神殿時代の沐浴場などである。

 この遺跡で有名なのはカナン人の城壁で、アブラハムの時代に居住区があったことの証拠である。この城壁は、第一神殿時代の後の時代の城壁と混ざっており、イスラエル王国時代のものである。

 この町とこの城壁が創世記に記されているようにアブラハムが来た場所絵、ヘテ人のエフロンと出会い、創世記23章に記されているように人類史上古代に記録された一つである売買交渉を行った。

 マクペラの洞窟は歴史、考古学、信仰、人間とその間にあるもの全てが織り交ざった興味深い場所であり、政治的又は宗教的な各自の考えとは無関係だ。4千年の歴史は今でも生きており、時々蹴り上げることもある。

 コロナ禍の今日で、マクペラの洞窟は毎日朝の4時から夜の21時まで一般公開されている。この場所も規制に沿って運営されており、同時に60人までしか入場できないようになっている。

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