紀元前12世紀半ば、聖書では士師記時代のカナン人の要塞が、キリヤット・ガット付近のキブツ・ガルオンでの考古学局発掘によって発見された。考古学局とユダヤ国民基金共同で、最近ゴブリン森で同遺跡は無料一般公開された。
考古学局考古学者のサアル氏とイタマル氏は、「発見された要塞は、士師記に記されているカナン人、イスラエルの民とペリシテ人との争いに関し、地政学的な状況を垣間見えさせてくれる。同時代のカナンの地はエジプトによって支配されており、その住民は彼らの保護下にあった。紀元前12世紀にこの地域に主役が2名出現した、イスラエルの民とペリシテ人である。そこから血を血で洗う争いが始まった。イスラエルの民は要塞化されていない中央部の山間に住み着き、ペリシテ人は南部の海岸地方に住み着いてその力を増し、アシュドッド、アシュケロン、エクロンやガットなどの大きな町を建設し、他の土地も侵略しようとした。ペリシテ人はエジプト人やカナン人に対し、想像ではペリシテ人のガット王朝とカナン人のラキシ王朝の間を通っていたゴブリン川の国境を争った」と語った。
考古学者はまた、「新しい地政学的な状況を対処するために、カナン人とエジプト人がガルオンの要塞を建設したと思われる。ただし紀元前12世紀半ばにエジプト人はカナンを放棄してエジプトへ戻った。彼らの放棄は保護を失ったカナンの町々の大きな破壊をもたらし、その破壊の責任者はペリシテ人であった」とも語っている。
「士師記の話は、複雑な地政学的な状況、支配地の抗争やイスラエルの地での政治的な軍事力の再構成などを明確に表している。この要塞の構造は国内で発掘された他の遺跡に相似しており、エジプト知事の家としても識別された。要塞は戦略的な場所に建設され、ここからはゴブリン川を通っていた主要道路、海岸平野とユダ低地を結んでいた道路を見渡せることができた」とのこと。
要塞の規模は18mx18mで、四隅に大きな塔がある。要塞への入口はとても大きなものであり、重量約3トンの一個の石によってできている。要塞の内部には中央に柱廊と石板が敷かれた床でできた中庭があった。中庭の両側に部屋が作られており、部屋の中では一部完全な形で数百個の陶器が発見された。陶器の中には器やコップなどの宗教儀式に使用されたと思われる特別な器が数多くあった。一部はエジプト風の陶器のように製造されている。