国境線の議論と10歳の有権者:第一回総選挙を振り返って

 独立宣言から8か月後、イスラエルでは第一回総選挙が開始した。当時国会は存在していなかったが、当時の様子は今日の選挙システムと相似している。「選挙闘争の大釜は沸騰し、泡立ってあふれ出し、最後の最後まで沸騰し続けた」。

 第一回総選挙には数時間の外出禁止令が事前にあり、数万人の警察官や兵士が選挙を警備し、迅速で効果的であったとの称賛と「長蛇の列」というクレームと共に、勿論全国民が興奮していた。第24内閣総選挙前に、この国の第一回総選挙を振り返ってみた。

 独立宣言書では、1948年10月1日までにイスラエル国家の選出された正規の政府は、制憲議会によって決定される憲法に従って設立されることを規定していた。しかし独立戦争が国家独立と共に起こり、選挙を実施させる十分な条件を可能とさせなかった。

 1949年1月になってやっとイスラエル南部の戦局が安定し、ロードス島での停戦交渉も前進して戦争終結の前兆が見えてきた。その時に戦時中に2度延期された総選挙は、1月25日に実施されることが決定された。

●1949年第一回総選挙:

有権者数 50万6,567にん

投票所 約1千件

政党数 21政党

最低得票数 3,592票

 その数か月前に当たる1948年11月5日に、初期に国を運営していた人民評議会は、制憲議会が120人の議員で構成されることを決定した。様々な選挙方法を話し合った結果、イギリス委任統治時代に議会選出で実施された選挙で慣例となっていた、比例代表制を利用することが決定された。

 投票自身は今日のように1枚の封筒が使用され、有権者が2度投票しないように選挙手帳には「投票済」のスタンプが押された。それに加えて有権者の投票済みを示す為に手帳に釘でパンチングされた。釘を使用してパンチングした理由は、この若い国には全ての投票所に十分なパンチングマシンが無かったからだ。

 総選挙実施前に確認が必要であったもう一つの課題は、有権者登録書の起草であり、これは制憲議会へ投票する有権者の市民リストであった。1948年11月8日に国勢調査が実施され、全国に7時間の外出禁止令が課された。その7時間で係員が家から家へと訪問し、そこに在住する市民を記録していった。

 その国勢調査で登録されなかった者は投票することは出来なかった。例を挙げると、外務大臣であったモーシェ・シャレット氏は当時国連を訪問中で、総選挙では選挙権を持っていなかったのである。

 制憲議会の総選挙は、治安の不安定性と新国家の国境線に関する不確実性が存在していた時に実施された。独立戦争が終結する以前に総選挙を実施することは、治安情勢が選挙運動の注目の的となっていったのである。

 左翼政党として、1947年11月29日の国連分割案に含まれた全ての領地を占領するまで戦いを止めないと約束したマパム政党。彼らの政策では、もしイスラエルが2か国に指定された全領土を占領すれば、アラブ国家と並んで自分達の国家を建設し、ユダヤ人とパレスチナ人両民族の2か国を樹立できるとしていた。

 マパム政党内では旧ソ連の社会主義精神を持って、イスラエル防衛軍によって占領される全ての領土には、両民族を含んだ一つの国が建国される方が良いと考えている者達もいた。

 政治マップ上でこの正反対に位置していた右翼政党が、メナヘム・ベギン氏が率いたハヘルート政党で、彼もイスラエルの領土占領をイスラエル防衛軍が戦闘継続することを約束していた。へルート政党では、トランス・ヨルダンを含むイスラエルの全地を占領し、国連分割案の国境線まで撤退すべきだと考えていた。

 完全なるイスラエル全地にユダヤ国家を建設するとへルート政党は唱え、これらの領土にアラブ軍が駐屯している間は、アラブ諸国とは一切の交渉をしないという姿勢であった。

 総選挙でマパイ政党を率いたダビッド・ベングリオン氏は、両政党の政策を受け入れず、1949年初頭にイスラエル防衛軍が達した国境線内に国を建設すると決定した。制憲議会総選挙前夜に、彼は戦争を終結させて新国家建設に目を向けることを目的としたエジプトとヨルダンとの交渉で多忙であった。

 新生イスラエル国家の第一回総選挙前夜で、2大勢力であったのが偉大なリーダーであったダビッド・ベングリオン氏率いるマパイ政党と、メイール・ヤアリー氏とヤコブ・ハザン氏率いるマパイ政党であった。レベルの違いはあれど両政党とも社会主義であったが、新国家の望ましい性格に関しては意見の相違があった。

 マパイ政党とベングリオン氏は、社会主義イデオロギーと政治的柔軟性を組み合わせた実用的なアプローチを唱え、イスラエルの地に於けるユダヤ人国家樹立の促進を唯一の目標とする国際力システムへの統合を考えていた。

 これに反してマパム政党にはよりイデオロギー的な姿勢があった。ヤアリー氏とハザン氏は、新生国家に純粋で独断的な社会主義を確立し、シオニストではあるが革命的で新ソ連的な性格を持つ農民と労働者の社会を構築しようとした。

 両政党の論争は個人的であり、地方と新生国家機関で重要な地位を占めていた人物達や、治安指導者の役割であった人々も巻き込むことになった。例を挙げると、パルマッハ(独立前の自衛組織)指導部は主にマパム政党か、政治マップではより左翼に認識された人達によって構成されていた。

 両政党の争いは新しい軍隊での将軍任命にも反映し、1948年にはベングリオン氏の辞任から始まり、イスラエル防衛軍の将軍達の一連の解任や辞任へとつながり、その中にはマパム政党のメンバーであったハガナー部隊(独立前の自衛主力部隊)全国本部司令官であったイスラエル・ガリリー氏も含まれていた。ベングリオン氏は最終的に辞任から復帰し、後に彼によって政敵と同一視されていた戦力部隊のパルマッパ部隊を解体させた。

 新生国家の第一回総選挙は、国民の中にも興奮を引き起こし、現場からの報道にもそれが感じられる。

 ダビッド・ベングリオン首相とポーラ夫人は、投票所まで歩いて行き、順番が来るまで列に並んでいた。「しかし彼等を知っていた群衆は拍手をし始めた。選挙委員会メンバーは混乱し、首相が”座って、座って、仕事を続けなさい”と言うまで立っては座りを繰り返した。選挙委員会書記長はベングリオンと夫人を列から離れて投票するように招待し、投票は一旦中断され、ロイター通信の記者が首相にコメントを求めたが、ベングリオンは”何も予見できない”と明確なコメントは避けた」。

 コネを利用しなかったのは、へルート政党党首であったメナヘム・ベギン氏で、テルアビブのディーズンゴフ通りにあった投票所に夫人と二人の子供達と到着し、「とてもゆっくり動く長蛇の列の後ろに並んだ。記者達が彼等を発見し、様々なポーズの”将来の野党党首”の撮影で15分間投票が中断した。列を離れて投票するように促された時にはそれを辞退し、そのジェスチャーを見た前列の人達から拍手喝采を浴びた」。

 同じ夜にイェディオット・アハロノット紙に掲載された全国の報道では、新生国家の国民で多大な興奮があったことが記されている。午後までには有権者の3分の1が投票を終えた。

 リッション・レツィヨンでは、「投票所の長蛇の列」が報道されている。テルアビブ周辺の軍基地の殆どでは、兵士達は早朝に投票所へ連れられて行き、朝食前に90%が投票を済ませていた。

 「高い投票率」とテルアビブのフロレンティン地域の投票所に記され、「市場での買い物前や帰りに寄った主婦達が、野菜で一杯になった籠を持って列に並んでいた」。又は朝の祈祷へ向かう信者達が、祈りの箱や祈りの衣が入った袋を脇に挟んで並んでいた。

 ハイファでも有権者の動きが活発で、イェディオット・アハロノット紙の記者の分析によると、「有色系ユダヤ人が住む通りでは、他の地域と比べて有権者の動きが活発であり、これらの地域では午後までに有権者の過半数が投票を済ませている」と出身地別の相違が伝えられている。

 投票所に押し寄せなかったのは国内のアラブ人市民だった。例を挙げると、ヤッフォーとハイファのワジ・ニッサンス居住区の投票所では、有権者の動きは殆ど無く、イスラエルの地労働者同盟事務局のアラブ人書記は同紙に対し、アラブ人の総選挙への興味は「少し足を引きずっている」と伝えている。

 第一回総選挙に相応しく、有権者登録書にもいくつか間違いがあった。例えば、ダビッド・ベングリオン首相の年齢の最初の数字が記入ミスされ0歳となっていた。他のケースでは登録係員が間違えて、10歳の子供も有権者リストに入れてしまっていた。記者に対し選挙委員会書記長で最高裁判所裁判官のメナヘム・ドンケルバロム氏は、「投票手帳が無いので投票権を利用することができないため、この子供が結果に影響する恐れは全くない」と伝えている。

 それ以外には、違う二つのリストに同じ女性の立候補者が登録されていた。「主婦」としてビッツォーリストの76番目と、「ジャーナリスト」として修正主義シオニストリストの102番目であった。「選挙委員会は、主婦としてもジャーナリストとして選ばれる恐れが無いと判断し、彼女の名前を両方のリストから同時に削除した」と伝えている。

 全ての総選挙のように、第一回総選挙にも支障や混乱が発生した。ペタフティクバの郊外の居住区では、投票所への投票箱を運んだ車が運搬途中に故障し、遅れて投票所が開かれた。エルサレムの北部居住区では、「自由選挙」への参加に反対するネトゥレイ・カルタのデモが起きた。

 テルアビブに配置された憲兵達は、マパム政党のポスターを貼って市内のバルフォール通りで軍用車を運転していた他の兵士達と小競り合いした「憲兵達は、軍の所有物を政治的宣伝に使用すべきではないと主張したが、兵士達はポシターの取り外しを拒否した」。

 宗教大臣であったラビ・ユダ・レイブ・フィッシュマンは、テルアビブの投票所に投票しに来た時に問題が発生した。ラビ・ユダは当時エルサレムの国家司令官で、有権者としてエルサレムで登録されたので、投票権もエルサレムであった。テルアビブに投票権を移行する要請書は途中で紛失したようで、投票権でさえも剥奪されそうになった。内務大臣がこの問題に関与したお陰で投票所に入って投票が可能となった。

 制憲議会第一回総選挙には21政党が争ったが、12政党のみが選出されることとなった。選出された中にはイスラエル・イエメン連合が1議席取り、その次の選挙にも選出したが、第三回目の国会総選挙では失敗して解散した。

 同様に1議席獲得に成功した政党は「戦士党」で、ナタン・ヤリンモール氏、イスラエル・エルダッド氏やイツハック・シャミール氏などの、ハレヒー組織の元メンバーが含まれていた。

●第一回総選挙選挙結果:

マパイ党 46議席

マパム党 19議席

統一宗教戦線党 16議席

へルート党 14議席

一般シオニスト連盟 7議席

進歩党 5議席

スファラディー系連合4議席

マカイ党 4議席

ナザレ民主党 2議席

戦士党 1議席

ビッツォー党 1議席

イエメン連合 1議席

 エルサレムをマニフェストにした政党は「エルサレムのために」で、その手段はとても限られていたが、カルメル・ミズラッヒ会社社長の支援を受け、同政党の印の「T」という文字とマニフェストを載せたワインボトルの特別ラベルを発行した。結局それは政党には不十分で842票のみ獲得して下から2番目に終わってしまった。

 殆どの票はマパイ党が獲得し、46議席で国内での優位性を強化し、マパム党は19議席、へルート党は14議席、一般シオニスト連盟は7議席獲得することに成功した。ベングリオンはマパム党とだけで左翼内閣を発足することが出来たがマパム党は野党に残し、共同政党で選挙に臨んでいた宗教勢力と協力することを優先した。

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