古代の秘密を探して、ホルケニア要塞遺跡を訪問

 ユダの荒野とその付近に、2千年以上も前のハスモン王朝時代には様々な使用目的の要塞宮殿が幾つか建設された。その後ヘロデ大王はこれらの宮殿を自分用に使用し、一部はもっと荘厳なものへ再建した。彼はそれ以外にも荒野に要塞を建設し、一つは彼の名前が付いたヘロディオン要塞である。孤立した位置の為に、素晴らしいレベルの状態でこれらの荒野要塞の一部は保存されている。

 今日それらの一部は有名な国立公園で、山頂までロープウェイで気楽に行けたり、一部は四駆で行くのも難しい場所がある。一部は全く知られておらず、一部は国家の象徴又は宗教の象徴として使用されている。ハスモン王朝とヘロデ大王家の要塞の地にようこそ。孤立した崖の上に素晴らしい要塞宮殿が建っており、莫大な富、輝かしい脅威、そして悪だくみの物語などの劇的な日々を知り、ネットフリックスのドラマにも負けない戦闘、殺害や自殺等も沢山ある。

 我々の殆どはハスモン王朝という名前は、神殿を浄化してギリシャ人に対する偉大な勝利をもたらしたユダ・マッカビーのハヌカの奇跡と認識している。全てはギリシャ・スロバキア王のアンティオコス4世から始まり、自身を「神の再来」と呼んだ悪者で、エジプトへの軍事遠征に敗れ、腹いせにエルサレムの神殿の財宝を奪っていった。それに対抗したハスモン家の祭司マティティヤフを筆頭に反乱が発生し、全民族を巻き込んでギリシャ支配とその文化を追い出すことに成功した。反乱のピークはアンティオコスが残していった苦痛からの神殿の浄化で、メノラーの再活動であった。

 マティティヤフの息子達が先導した戦いの勝利の約20年後に、ハスモン家はユダに独自のユダヤ人王朝の設立に成功し、小さい王朝は約100年間生存した。残念ながら権力と共に妨害行為と腐敗が起こり、ハスモン家の王達は以前ギリシャとその文化に対してあれほど戦ったのに、ギリシャの作法や名前さえも使用した。ハスモン王のヨハナンは、「ホルカノス」というギリシャ名も使用していた。彼はユダの荒野のど真ん中に要塞都市を建設した最初の人物で、エルサレムから東に約16km離れた場所に、彼自身の安全と市民批判を受けない贅沢な生活の為に建設した。彼はこの要塞を自分の名前を持ってホルケニアと名付けた。

 彼の後継者のヤナイもギリシャ名のアレクサンダーで着飾り、彼も荒野のど真ん中に荘厳な宮殿を建設した。どんな名前が付いたか想像できるだろうが、そう、アレクサンドリオンだ。

 ハスモン王達は、エリコの上(ドック)、死海の両岸(マサダとマクバル)に他の要塞宮殿を建設したが、紀元前63年にローマの将軍ポンペイウスがエルサレムの城門に到着し、シオンに住む住民やハスモン王達に対して、ローマ帝国が全てを支配下に置くと通告した。ハスモン王朝の要塞を彼は破壊し、ハスモン王朝が反乱を起こさないようにした。ギリシャの賢者ストゥラボが書いた同時代の文書によって知ることが出来る。「彼(ポンペイウス)は全ての城壁の破壊を命じ、彼の力の及ぶ限り要塞化された倉庫や城を破壊した。何故ならエリコへ向かう途上にテラケスとタウルスの二か所があり、アレクサンドリオン、ホルケニヨン、マクバル、リジアス、フィラデルフィア付近のエレとガリラヤのスキトポリスである」。

 ハスモン王朝の支配は操り人形として20年間継続し、最後にはローマ人がユダの課税権をユダヤ教に改宗したエドム人の子孫、ヘロデ大王に与えることとなる。最後のハスモン王朝のマティティヤフ・アンティゴヌスは、最後までヘロデ大王と戦うが、最後にはアンティオケアで処刑され、彼の遺体はエルサレムの埋葬に搬送されたようだ。

 ヘロデ大王はハスモン王朝の全ての荒野宮殿を再建した。特にマサダの再建は知られており、これは最初から建て直した。エリコの崖の山頂にも要塞宮殿を建設し、母親の名前でキプロスと名付け、ベツレヘムの少し南に特に荘厳な要塞宮殿を建設し、これも彼の名前であるヘロディオンと名付けられた。2007年に故エフード・ネツェル教授を筆頭とした発掘使節団が、ヘロディオンでヘロデ大王の墓を発見したと発表し、その発見はイスラエル博物館でとても成功した特殊展示会へと導かれていく。

 しかし荒野の宮殿の運命はどうなったのか。今回はその中でも最も古いユダの荒野のど真ん中にあるホルケニアに焦点を当ててみる。ヨセフスの本には記されていないが、ホルケニアは約30年間統治したハスモン王朝の初代王、ヨハナン・ホルカノスによって建設され、政治的支配と独占の明確な省庁であるコイン鋳造を行った最初のハスモン王朝の王でもある。

 ヨセフスはホルケニアの全貌には触れておらず(マサダやヘロディオンは詳細に記したのに反し)、アレクサンドリオンとマクバルと共に自己の財宝も守ることも含めて、ハスモン王朝が利用していた場所だと記している。「(アレクサンドラ)女王は、自身がするべきことも知らずに、要塞の管理を自分の息子達に委ね、自身の財産があったホルケニア、アレクサンドリオンとマクバルは除外した」。

 ユダがローマの支配下に置かれた時に、ハスモン王朝の王族達は一瞬にして「操り人形」となってしまい、彼等の主な役割はローマの為の税徴収を行うことだけであった。ローマの支配を確実にするために、ポンペイウス将軍はハスモン王朝の荒野要塞を破壊し、ホルケニアも含まれていた。しかしその破壊は徹底していなかったようで、その20年後にハスモン王朝を継続させようと最後の試みでこの要塞に立て籠ったアレクサンドラという名のハスモン女王に対し、ヘロデ大王はホルケニアを数年間兵糧攻めにする必要があった。

 その後ヘロデ大王自身がホルケニアを再建し、紀元前15年にはオーグストス皇帝の将軍で右腕であったマルコス・アグリッパをそこで迎える。当時のホルケニアには、マサダで分かっている目を見張るような素晴らしさがあったと想像され、最近はヘロディオンの発掘でも証明されている。それに反してヘロデ大王は、ホルケニアを政治犯の留置所としても使用した。彼はエリコで瀕死の状態であった時に、怒りに駆られて処刑した長男のアンティパトロスをホルケニアに埋葬するように命令する。「王(ヘロデ)は病に侵され、大声で親衛隊長を呼んでアンティパトロスを殺害し、その遺体をホルケニアに埋葬するよう命じた」。

 ユダヤ人のローマに対する第一次反乱の時に、ホルケニアを使用したかどうかの情報は無いが、その数百年後にビザンチン修道士達がこの遺跡や周辺に居住し、カスタリヨンと呼ばれた共同修道院を建設した。いつまでその修道院が存在していたのかは分からないが、中世時代には廃墟となった。1923年に付近にマル・サバス修道院の修道士達が新しく居住しようと試みたが、1939年には地域の治安悪化の理由で放棄した。

 ホルケニアは1880年に確認されたが、今日まで発掘されたことが無いのは残念だ。ホルケニアには素晴らしい宮殿や、印象深い要塞があったことは想像できるし、その秘密は今でも我々の発掘を待っているし、一部は時と共に盗賊によって荒らされ、正確に言うと今日でも盗賊に荒らされている。2021年1月にこの遺跡を訪問した時には、その山頂や麓には盗難用に掘った穴や、価値のない陶器の破片などが山積みになっていたのを沢山見た。1950年代にはベドウィンがビザンチン時代のパピルスを発見したが、それらは整理して発表されていない。今日テルの山頂には主にビザンチン時代の修道院遺跡が見られ、モザイクの床や、ヘロデ大王とハスモン王朝時代の貯水槽などが見られる。第二神殿時代からの最も目立つ遺跡は、要塞の西側に建設された水道橋の橋の遺跡の一部が最も印象的で、両側に大きな貯水池も掘られている。この水道橋は、ホルケニアの西側にある犠牲の山、モンタール山の付近から始まっている。

 1952年には、クムラン洞窟の北約2kmの場所に、今日まで多くの考古学者の想像を掻き立てる写本、青銅の写本が発見された洞窟がある。この写本は多くの試行錯誤がなされて製造され、総重量100トン以上の銀、金や神殿の財宝が60か所に眠っていると描写している。青銅の写本を発表した最初に人物、ジョン・エルグレーは幾つか調査した後に、これらの財宝の一部を見つけようと発掘を行ったが、今日まで一つも発見されていない。

 写本の最初の行には、隠された財宝が「東側に下る坂道の下にあるアコール谷の遺跡から40アモット」と記されている。エルグレーはアコール谷はホルケニア谷であり、遺跡とはホルケニア要塞では無いかと想定し、当時は既に廃墟となっていたことも確かである。1960年代に彼はホルケニアの北側にあるワジで、二個の洞窟を発見して一つを発掘したが、約30m発掘してから諦めた。その25年後、パイロットで冒険家であったボブ・モーガンという人物が洞窟の話を聞き、エルグレーの指示を受けてそれらの洞窟を発見した。洞窟の発掘を再開する為にエルグレーとの会合を決めたが、残念ながら予定日であったのがエルグレーの誕生日でもあったにも関わらず、同日65歳の若さで心臓発作で急死した。モーガンは秘密にそれらの洞窟を発掘したが、毎年冬には洪水で発掘した穴が塞がれてしまった。

 最終的にモーガンは1999年に、当時ヘブライ大学博士課程であったオーレン・ゴットフィルド考古学者と協力し、オーレンが資本、許可や道具などを準備し、これらの洞窟をシステマチックに発掘し始めた。不幸にも第二次インティファーダが勃発し、やっと2007年にオーレンは二つの洞窟の発掘を完了させた。東側の洞窟は53mまで到着し、二つ目の洞窟には120mまで到達したが、残念ながら価値ある物は何も見つからず、正確に言うと洞窟がもう行き止まりになっていた。

 この二つの洞窟に関する想像や疑問は多く、財宝を隠す為に掘られたのか、しかし最後には中止したのか。ヘロデ大王反対派の強制労働として掘られたのか。反対派を埋葬するために掘られたのか。オーレンが唱えるように宗教儀式の場所として利用されていたのか。誰も明確な回答は持っていないが、ホルケニアを発掘する者がいつか出てきた時に、まだサープライズが残っているのかも知れない。

 ホルケニア山頂には車では行けないが、山麓までは到着できる。一番いい行き方は、1号線からナビムッサの道路を南に下ってホルケニア谷へ向かい、テルの麓に向かう緑色のトレイルを行く。2021年1月現在でこの道路は簡単に通ることが出来、自動車でも問題ない。テルの東側に到着し、そこから山頂の西側にある水道橋を通って数分歩いて上っていく。もう一つの行き方は、黒色のトレイルに沿ってモンタール山から下る。これは冒険的な道路で、ホルケニアの西側約500m手前で終わっている。そこから歩いても数分だが、車が見えなくなってしまう。

 健脚な人達は、マアレー・アドミームの近くにあるオールド・ケイダールから歩いて行き、素晴らしいマル・サバス修道院に到着したら、モンタール山頂まで歩いて行ってそこからホルケニアまで、そしてケイダールまでまた歩いて戻る。イスラエル製荒野天国の約21kmだ。

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