割礼を行う理由は、殆どが道徳とは無関係

 「ナイス・ガイ」お笑い番組のスター、ガイ・ホフマン氏が、割礼に関するポストを今週発表し、インターネット上で数千のライクと共有を獲得している。ホフマン氏の事を知らずとも、このポストには多大な重要性があり、何故なら彼の意見は我々イスラエル人社会の大多数を代表しているからだ。

 まずこのポスト自身を読んでみる方が良い。もし忙しくて時間がないならば、要約はこうだ。真面目な顔をしたホフマン氏が、「異教徒的」で「原始的」であり、「とても酷い」行動を自分の小さい息子に行ったことをイスラエル民族に謝罪している。彼が挙げている割礼への理由は一般的な理由であり、自分の注意書きも括弧内に入れて引用してみよう。

●「自分の息子が他の子と同じでいて欲しい」(通常他人より違う人になってほしいという願いに反しているが、どちらにしろ子供達は自分が他人より違うと感じることは時々ある)

●「幼稚園で子供達はオチンチン比べをするのだから、他の子が皆襟元を正しているのに、自分の息子だけ顔まで覆っているのは無理」(勿論誰とも比較する必要もないし、軍隊に行くまで誰とも一緒にシャワーを浴びる必要もない。もし他の子がそれを見たとしても沈黙を貫くだろう)

●「痛いだろうし泣いているし、自分の心も張り裂けそうだが、しかし覚えてはいないだろう」(もしそうならビンタしても一緒じゃないのか?)

 アメリカ人の心理学者で研究者であるジョナタン・ハイダット氏は、今日の道徳研究者として突出している人物で、我々の道徳的決定の殆どは論理に基づいているのではなく、直感と感情が示すものに基づいていると主張している。我々は正当か不当かを「感じて」それに沿って行動する。彼の理論が「直感主義モデル」と呼ばれているのは当然である。彼によると、我々が表現することが大好きな道徳的論理、道徳的知識と道徳的理由は、行動後に来るものであり、最初の直感を正当化するものでしかない。言い換えると「道徳的正当化」だ。

 後からやって来るこれらの理由が、我々を導いてくれる理論ルールと相反することが度々ある。例えば「自分の息子は他人と違ってほしくない」という主張は、もし息子の鼻が変形していれば、小さい時に直ぐに手術をして、子供が大きくなって自分で選ぶまで待つことは無い。他の子供達がそれを見て馬鹿にするからだ。

 自分の息子がユダヤ民族の一員となるために割礼を施している人は、少なくとも意識的考慮からそれを行っている。「自分の息子を傷つけているが、この素晴らしい歴史を持った素晴らしい民族の一員とさせていることを与えているのだ」と言うだろう。又は簡単に言うと、「どんな代償があろうが、私の人生観で他の全てのをことを行っているように、神の言葉を実行しているのだ」。この理論だが、これらの言葉を用いていなかったとしても、また他の人が彼と同意していなかったとしても、自分の主義を貫いている。割礼に関する他の理由の問題は道徳的正当化であり、多大な妥協から成り立っているからだ。「皆やっているのだから、自分の息子も他の子と同じようにする」という事だ。

 妥協というものを誰も自分にも他人に対しても認めようとしない。ホフマン氏に対して個人的に反対もしていない。彼はとても面白いコメディアンで、一緒にいるのも心地よいだろう。また個人的に彼のポストにも問題はないし、とてもよく描写していると思う。彼は最後に面白くくくっている。「もし息子が数年後にこれを読んで私に怒りを感じるならば、それは理解できる。割礼に関しては自分に選択権があるが、大きさには関係無いことを覚えていて欲しい。これは遺伝だ、自分のも小さい。息子を愛している、股間はしっかりと守ってほしい」。しかし彼は自分の意見だけを述べているのではなく、本当の意味と関係なく割礼を施している人達の代表意見としてである。彼の主張は議論ではなく、根拠のない道徳的正当化なのだ。

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