上下左右:書く方向(後編)


 ゴーティン市の梯子の上に立ち、壁に長文の碑文を彫り込していると想像してみよう。1行書き終わったら次の行は直ぐに隣から始め、わざわざ梯子を下りて装備を持って隣に移動し、また上に行って書き始めるということはしないだろう。この利点は今日でも有効であり、石に碑文を彫り込む人達だけのものではない:毎回読み書きし終わると、画面や紙面の隣の行に目を移動させることに時間を要する。行が長ければ長いほど、もし手記ならば真っすぐではないので余計に、次の行を見つける為に要する時間は長くなる。

 慣れればブストロフェドン文書を読むほうが、とても迅速で効果的であると主張する者達もいる。この方法の支持者達は、既存のテキストをブストロフェドンに変換する、無料のツールとソフト開発キットを提供しており、このフォーマットで文章を読むことを提供しているホームページも立ち上げられている。

 ギリシャのブストロフェドンの黄金期は紀元前6世紀であった。紀元前5世紀から段々とこのスタイルは消滅し、ヘレニズム時代の紀元前4世紀には、書き方は左から右へと固定された。何故ギリシャ人がこの方向へ決めたのか理由は定かではない。心理学者の中には、右脳と左脳の活動の相違により、ほぼ動きのある文字が無いヘブライ語やアラビア語などの子音文字系統には左から右へと書くことに利点があり、優先的動きと子音が含まれている文字系統には、左から右へと書くことに利点があると主張している。しかしこの説明にも意見の相違がある。

 ギリシャ文化で右から左へ書くことが決定した背景には、その地域で古代の書き方の伝統によるものだと想定しているものもある。例えば紀元前11世紀までの古代ギリシャで使用されていた線文字Bである。しかしこの説明にも十分な証拠がない。

 もう一つの想定は、ギリシャ文字はフェニキア文字から発展したのではなく、カナン文字からだとしている。しかしフェニキア文字は中東全体でダイナミックな文字であり、原始カナン語も消滅せずにカナン語へと発展し、フェニキア文字とは対照的に様々な方向から書き続けた。この想定によると、ギリシャ文字はカナン文字に基づいており、紀元前7世紀から紀元前6世紀まで、一定の方向では書かれていなかったと想定するのが妥当だとしている。

 どのような特定の方向に決まったとしても、一方方向への決定は読み書くを安易にしてくれている。証拠としてその利点に反し、ブストロフェドンは最終的に消滅し、近代世界の主要な文字系統は全て一定の方向に落ち着いている。

 2千年以上もブストロフェドンは、言語学と歴史学以外では使用されておらず、芸術的ツールにしか利用されなかった。例えば映画「アトランティス」のために、言語学者のマーク・オークランドによって、ブストロフェドンが豊富なアトランティック語が発明された。オークランドは、スタートレックのシリーズや映画で、クリンゴン民族用の複雑な言語を開発し、ハリウッドで名声を獲得している。クリンゴン語のようにアトランティック語にも詳細な文法規則があり、かなりの文字系列と語彙があったが、ディズニースタジオの外で話されたり書かれたりはしなかった。

 2001年にブストロフェドンは、予想もしていなかった場所で復活した、太平洋に浮かぶペンテコステ島である。オーストラリアとニュージーランドの間にある小さい島は、バンジージャンプの元となったアースダイビングで知られている。2001年にペンテコステ島の首長ビラレオ・ボボレンバヌア(Boborenvanua)が、国連の先住民族会議に出席し、島の北東に独立国家トラガの樹立を盛大に宣言した。

 この宣言は、イギリスとフランスの植民地主義の産物である、西洋政府と先住民との間の緊張の頂点であった。首長は国家には独自の硬貨と銀行があり、イノシシの尻尾と貝を基本としており、言語はラガ語(Raga)に基づいていて、これはマレーシア地域の伝統的な言語の一つであり、アビユリ(Avoiuli)と呼ばれる文字系統え、島の伝統的な砂絵に基づいている。砂絵の主な特徴は、棒を地面から離さずに一気に描くことであったため、紙からペンを離さずに連続して書き込めるように言語が作られている。ブストロフェドンは、一番適切な選択肢であった。

 独立国家トラガでは、14年間アビユリ語の小さい伝統的な学校が運営され、数十人の子供達がブストロフェドンの書き方を学んでいたが、2015年に危機に面した。隣の村人達がトラガの海岸へ侵入し、最も需要が高い食料のナマコを盗んでいった。報復としてボボレンバヌア首長は、隣の村を襲撃し、その時に幾つかの小屋を焼き払った。この報復は首長の逮捕で終了し、彼等の活動にとっては致命的であり、学校も最終的に閉鎖された。ボボレンバヌアが発明した方法の読み書きを知っている者は数人しか残っておらず、ブストロフェドンの読み書きの伝統は、また歴史のページへと戻っていった。

 最後に東洋に目を移すと、ここでも言語の方向分野に於いて震動を経験している。韓国語、日本語と中国語は、長年上から下へと書かれており、行は右から左へとなり、本のページのめくる方向はヘブライ語の本と同様である。今日3か国語とも英語のように左から右へ横書きし、本のページの綴じ方も逆になった。この変化は、グローバル化の産物として比較的最近起きたことである。

 中国での方向変化が告知された最初の知らせは1915年で、「科学」雑誌の初版が発行された時であった。初版はセンセーショナルに、左から右へと書いた文章が掲載されていた。「この雑誌は左上から始まる横書きで、これは新しい試みではなく、数学的、物理的化学的方式を記入するのに比較的安易だからである。読者には申し訳なく思う」と書いている。その数十年間はヨーロッパ言語の定義が、中国語の伝統的な文書に段々と使用されるようになり、毎回読むために90度方向転換していくのは面倒なこととなった。1949年の共産党革命後に、公式な文書は縦書きのみと決定した。

 今日中国では、殆どの文書は左から右への横書きであるが、新聞で細長い部分が残れば、そこに縦書きの文章を見ることも多くある。また古代の寺院や紫禁城では、4文字の伝統的な詩が、全て右から左へ書かれており、中国語の伝統的な書き方に基づいている。

 縦書きから横書きへの変化は日本でも起こり、しかし伝統的な方向もいまだ受け入れられている。本屋では縦書きの書物が沢山置かれており、ヘブライ語のように行は右から左へとなっている。比較的新しい本は英語のような横書きがある。

 韓国もこの種類のグローバル化に参加したが、ここ数十年間で起きたことである。1988年に最初の新聞が左から右へ印刷するようになり、段々とそれに参加して90年代には全新聞がそうなった。今日縦書きは本や、古い新聞、又はデザインのエレメントとして使用されている。

 最も突出しているのは台湾であり、歴史的、政治的な理由が主で縦書きを多く残している。1911年に最後の王朝が滅亡した後に、共産党が中国全土を掌握した。しかし1949年に市民戦争で共産党が勝利した後に、中華人民共和国が中国本土を支配し、台湾の島だけが中華民国の残党となった。両国間では文化的、政治的絶縁へ発展し、各自が中国の支配権を主張し、相手の政権の正統性を弱体化しようとしている。

 中国本土とは対照的に、台湾では古代中国伝統の多くが保守され、読み書きの方向もそれに含まれている。しかし台湾の保守的な考えもグローバル化の力に勝つには困難で、1990年代から段々と横書きへと移行し始めている。今日殆どの新聞は横書きになっている。

 読む方向には、興味深い心理的影響もあるとされている。研究では、世界の様々な場所で、時間の経過に関する映像的な方法での比較を実施し、参加者には明確な時間の経過が描写された映像を机の上に並べるように依頼し、例えば出産から死までというものであった。この結果は、様々な国でも書く方向によって、時間のとらえ方が決まってくることが明らかになった。

 例えばイギリス人は、いつも左から右へ時間の軸を整理している。それに反し、英語を話す中国人は、いつ英語を学び始めたかにも依存しているが、やはり横向きに置いた。比較的後に英語を学んだ二か国語を話す中国人は、縦向きに時間の軸を作った。また北京語を話す中国人は、例えば年間の月の名前が出た映像が横ではなく、縦に置かれている方が認識に要した時間が短かった。英語を話す中国人はこれの正反対であった。

 他のケースでは、若者で北京語を話し、現代の横書きに慣れている中国人は、やはり縦よりも横に時間の軸を考え、英語を話す人達と同じ考え方であった。これに反し、台湾人は、縦と横が五分五分に別れ、少なくはない数の人達が右から左へと時間の軸を見ていた。

 グローバル化と統一化は継続され、約2,500年前に原始カナン語の子孫達は、再度同じ方向へと一つになるのかも知れない。そうなると将来には、現在このヘブライ語の記事を右から左へと読んでいることが、我々の子孫にとっては紀元前6世紀のブストロフェドンの言語のように見える時が来るのかも知れない。

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