上下左右:書く方向(前編)

 右、左、右:何故我々はこのように書くのか?ヘブライ語とアラビア語、また最低でも他の10言語は右から左に書いて行く。今日使用されている殆どの言語は、同じ古代言語から発展したが、しかし左から右に書いて行く。ヘブライ語を話す子供だった時に、何故自分の母国語とは反対に、殆どの言語は左から右へ書くのかと尋ねたことがある。その時には、古代の言語は石に金槌とノミで掘られ、現代言語は、例えばヨーロッパ言語など、紙にインクを使用したからだと説明を受けた。この説明によると、殆どの人類は右利きなので、石に文字を掘るのは右から左が楽であり、紙には左から右へ書くと、利き手でインキを消してしまう恐れがあるという意味だ。それを聞いた時も納得せず、何故なら万年筆でヘブライ語や英語を書いた時に、そのような違和感を感じなかったからだ。

 確かに多くの研究者達はこの主張に異議を唱えている。まず書く方向がインキを消さずに済むという主張は問題があり、何故なら今から既に4,600年前の古代エジプト人は、パピルス、又は壁画やその他のオブジェクトに様々な色を使用し、様々な方向から書いていた。中東のその他の言語も、麻、パピルスや羊皮紙にインクで右から左へ書かれていた。

 石に彫り込むのも何故右から左の方が楽なのかも明確ではない。石へ文字を彫り込む角度は右から左へとなるが、上下に書かれている事実もある。エジプトのヒエログリフは、全ての方向から書かれており、特定の方向が優先されていたことも明確ではない。それにまた、一部の文字、例えば楔形文字は、彫り込まれたり、粘土のような柔らかい物質を削ったりと、右利きの人にとっては書いた文字が隠れないように書いて行くのが当然かと思える。

 これでも十分でないならば、最古の文字は特に右から左へ書かれたわけでもない。我々が知っている最古の文字である楔形文字にもない、古代のヒエログリフにもない、今日セム系言語及びヨーロッパ言語と発展した、原始カナン語にもない。

 楔形文字では、殆どが左から右へ書かれている。エジプトのヒエログリフでは、縦横に書かれている。縦に書かれている時には、右から左へ読むときもあれば、その逆もあり、シンボルがどちらに向いているかによってそれが決まっており、いつも最初の行に向いている。

 楔形文字とヒエログリフのシンボルは、文字自体を表したり、音をあらわしたり、文字として表したりしているが、知られている最古の文字系統にでさえ、約3,800年前に使用された原始カナン語(原始シナイ語とも知られている)は、様々な方向で書かれており、同じ文章の中でも向きを変えたりしている。

 原始カナン語を基本としたフェニキア文字が来て初めて、そこからインドから西洋まで発展したと想定されているが、右から左へのみという形になった。そこからヘブライ語、アラビア語や、フェニキア商人が辿り着いた地方の言語まで発展していった。ヨーロッパ言語の文字もフェニキア文字を基本としており、ただ左から右へと書いて行く。もしそうならば、ヨーロッパ言語の書く向きはいつ変更したのだろうか?

 古代文字研究者(古文書学者、ギリシャ語の:古代記録)の前にある挑戦は、古生物研究者(古生物学者)のものと似ている:一部の発見を基本として継続した発展を解析する必要がある。一部の写真から映像を復元する試みのようなものである。写真が多ければ時間帯が分かり易く、元のものに復元することが可能となる。

 約1,600年間の現代ヘブライ語文字の発展を追跡すると、原始カナン語、フェニキア語とアラム語を通じて今日の形になった。

 数千年の時、言語から言語へと段階的に文字の形も変化し、現代ヘブライ語の文字の一部と、同じ文字の原始カナン語の文字の間には相似した部分が全くない。これに反して文字の音は、さほど変わっていない:今日知られている文字の名前(音)も、殆どフェニキア文字のアルファベットと似ている。確かにフェニキア文字の「ツァデ」、「タウ」と「メラマッド」は、ヘブライ語の「ツァディ」、「タブ」、「ラメッド」に変化したが、もし今日のヘブライ語アルファベットを、今から3,800年前の国語の先生の前でそらんじたとしたら、「合格」を貰っていたことであろう。ヘブライ語は、カナン語で唯一現在でも使用されている言語であり、これらの文字の名前の意味が理解できるという特権がある。ヘブライ語を話す者として、数千年前の原始カナン文字の大多数を、その形によってオリジナルに近い音で表すことが出来て理解できる。

 今日普及していないオリジナルの主語の一部として、例えば最初の文字の「א」(あ)という音は、2本の角を持った牛の頭に似ており、音は「アレフ」で意味は牛であり、聖句では「また牛の子、羊の子を増やされるであろう」(民数記:7章13節)にも記されている。そして「ל」(ラメッド)という文字が「メラマッド」という形を表しているならば、家畜を飼うために使用したカナン文化の杖であり、聖句では「牛のむちをもってペリシテびと六百人を殺した」(士師記:3章31節)と記している。

 多くの他の主語は、名前や文字の形として今日のヘブライ語でも使用されている:「ר」(レイシュ)は人の頭を描写している;「מ」(メム)は水の波の形に見える;「כ」(カフ)は手の平;「י」(ユッド)は腕を表す。一部の文字は、音も意味と一緒にそのままで残っており、原始カナン語から青銅器時代を通過し、ナオミ・ショメルのアルファベットの歌にまで到達した:「…ベイトは家(バイト)、ギメルは大きなラクダ(ガマル)、ダレットは何か、それは全てを開くドア(デレット)」。ヨーロッパ言語では文字の名前の意味を見つけるのは困難であろう:例えばギリシャ文字のベータやデルタは、ギリシャ語の家やドアとは全く関係が無い。

 何度も書く方向が変化したのは、文字の書き方や形も含めていつどのように起きたのか?歴史から学べるのは、一部の言葉の方向転換は急に起こり、同じ言語の競合する文字系統との衝突によって起きた。例えばイギリスでは、西暦1千年末までは、最初の6文字にちなんで名づけられた、フターク(Futhark)と呼ばれるルーン文字で右から左へと書いていた。西暦1千年末にヨーロッパにローマ・キリスト教が普及したのと共に、ラテン語のアルファベットがルーン文字と一度に交替し、それと共に書く方向や読む方向も急激に変化した。

 同様の衝突が今日、アゼルバイジャン語でも明らかであり、したがって水平方向に両側から読み書きされる、唯一の独占的な地位を占めている言語でもある。アゼルバイジャン共和国の約1千万人の市民が、キリル文字(ロシア語)とラテン文字の混合で左から右へと読み書きしている。イラン北部で生活している約1千5百万人の同じ言語の住民は、ペルシャ語とアラビア語の混合でこれを右から左へと読み書きしている。

 しかしアゼルバイジャン語とイギリス英語は特例であり、殆どの文字系統は左から右へと書いており、変化は段階的に起きている。

 書く方向は主に4方向ある:ヘブライ語とアラビア語は右から左;ヨーロッパ言語は左から右;東洋では上から下、行は右から左(例えば韓国語、中国語と日本語)、その他には左から右(例えばウイグル語やモンゴル語);そして最後にスマトラのバタク語と、フィリピンのオノ語は下から上に書く。

 しかし5方向目の選択肢もあり、これが方向転換のメカニズムを説明しているのかもしれない。

 紀元前6世紀から残ったギリシャ語の碑文の殆どは、右から左ではなく、左から右でもなく、ブストロフェドン(Boustrophedon)と呼ばれる組合せになっている。この方法では、ある一定方向から書き始めるが、次の行は反対方向に書き、またその次の行も反対にという繰り返しである。ギリシャ語の「ブス」(βοῦς)とは牛という意味で、ストロフェ(στροφή)は回るという意味、最後の「ドン」(δόν)は動詞を表している。畑を往復しながら耕す牛を表しており、行の最後で方向がひっくり返るのだ。これに基づいて偶数行の文字も、奇数行の文字に対して反対文字となっており、これによってどの行がどちらの方向に向いているかが分かるようになっている。

 ブストロフェドンの移行段階は、多くの古代ギリシャ語文書で見られる。これで書かれた有名な遺物の1つには、ゴルティン・コードがあり、クレタ島のゴーティン市の法律では、奴隷の所有権、相続と養子の規制、強姦や貫通などの罰則などが定められている。殆どの文章は消えているが、一部は残っており、幅10m、高さ1.5mの印象深いものである。古典的ブストロフェドン文書として、奇数行は左から右に書かれており、偶数行は右から左である。E,P,Sなどの左右対称ではない文字では、行間で文字の向きが逆になっていることが明確である。

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