ユダヤ教賢者達は優秀な歴史家では無かった:神殿崩壊後の日常生活の研究

 「イスラエルの殆どのユダヤ人居住地は破壊されず、そこから追放もされなかった。エルサレムと神殿、及び北部の一部ユダヤ人居住区の崩壊は、2千年間の離散を生んでいない。ローマ人は計画的に追放したのではなく、全くその正反対で、効果的な検討から属州の安定を優先していた」。ローマ人と征服された民族との複雑な関係について既に31年間も研究している、歴史家のドロン学者の言葉であり、彼の新しい結論によると、神殿崩壊と離散に関して我々が知っていると考えていたことに、新しい光を照らしてくれる。

 1988年にドロン学者はエルサレムに住んでおり、ヘブライ大学歴史家の大学1年生であった。「その年にローマを訪問した。西暦69年から西暦96年までに建設された、ティトス将軍の凱旋門、円形闘技場や皇帝宮殿などのフォルム付近のモニュメントの建物が多くあることに気が付いた。大反乱を鎮圧し、神殿を破壊した皇帝は、ローマでは突出した建設者であったのは何故かと自問自答した」と語った。

 シャフター研究所、及びダビッド・イェリン・カレッジの講師であるドロン学者の驚きの結論は、近い将来に出版される「占領されたユダ」という本に掲載される。「西暦69年にローマ人達は、王族の血より、軍事力を持つものが統治者になると理解していた。その為に1年間で4人も皇帝が入れ替わった」。

 「その最後の一人は全く好かれていないが、それがベスパシアヌスであり、息子のティトスと共に西暦67年春にガリラヤへ到着し、ユダヤ人の反乱を鎮圧しに来た。学術的研究に於いて許容される理解は、新しい皇帝一家の力をローマ帝国全土に見せる為に、反乱は最も残酷に鎮圧されたということになっている」。

 「ローマ人は残酷ではあったが、全てを焼き払った訳ではない。ヨセフ・ベンマティティヤフは、1百万人のユダヤ人達がエルサレムで殺害されたと本に書いている。しかし第二神殿時代のエルサレムは、ケデロンの谷から現在のメアシャアリーム地域までの面積で、現在の旧市街の約2倍の面積になる。その場所に1百万人も住めるわけがなく、そうするとそんな数が死ぬ訳がない。しかし当時の歴史家達は、数に関しては適当に書いている」。

 「特別に、私の卒論には2人の指導者がいた。イスラエル民像歴史家のノア教授と、一般歴史のハナ教授であった。我々の傾向はユダヤ人的観点から見ることであり、我々がユダヤ人なので仕方がないが、しかし研究や著書では、ローマ人の観点からイベントを検討するようにしている。このようにローマ人の行動の殆どは憎しみからではなく、政治的、経済的、及び軍事的理由であったことが判明している」。

 「ローマ人はシオンを好きではない、しかし彼らは現実主義であった。殆どの場合では、彼らは反乱の根源の鎮圧を実施し、反乱が起きている中心を破壊しており、他の地域では通常の生活に早く戻るように試みていた」。

 「例えばエルサレムは完全に破壊され、ローマの第10軍団が駐屯した。しかし兵士達は、彼らに(有料)で、例えば食料や洗濯ものを供給させる市民的チャンネルが必要であった。2007年にエルサレムでトラム建設中に、ショアファット付近で神殿破壊後に建設された大きなユダヤ人居住区が発見された。ローマ建設スタイルで建築されたが、発見されたコイン、沐浴場や動物の骨はコーシェルに沿ったものばかりで、兵士達への必需品を供給していたユダヤ人達が住んでいたことが分かっている。神殿破壊後にもユダヤ人達がこの付近に住んでいたことは明確である」。

 ユダヤ教信者として、ドロン教授は神殿崩壊日の断食を守り、伝統や律法で決められた追悼の全ての習慣を行っている。しかし彼の研究では、ユダヤ賢者達は「そんなに突出した歴史家達ではない」と言及している。彼によると、ユダの破壊は主にエルサレムの破壊だけであり、全ての地域ではなく、ガリラヤも当時破壊された居住地は少なかったとしている。

 「ヨセフ・ベンマティティヤフは、反乱の準備としてガリラヤとゴランの19都市を要塞化したと書いている。考古学的証拠によると、厳しい戦いの後に破壊された3か所、ヨドファト、ガブラとガムラに関しては知っている。しかしティベリア、ツィポリ、グッシュハラブなど、中心的な都市は戦わずして降伏している」。

 「ガリラヤやゴランには約200個の村があり、殆どが降伏し、殆どのユダヤ人居住地は破壊されなかった。これはローマの全般的な姿勢と適合しており、反乱していない居住地は手を付けず、反乱後に属州を支配する必要があるからだ。税も徴収し、徴収する相手が必要であったからだ」。

 「ローマ人は、天を恐れ神を敬うイメージを自負しているが、実際には神殿の焼き払いを含んだ頑なな政策を実施しており、宗教的理由や罰としてではなく、神聖を無視し、敵の要塞として理解したからであった。西暦69年に、ベスパシアヌスの敵は、市民戦争の途中でローマ市の中心部にあったジュピター神殿を焼き払った。エルサレムでも神殿にユダヤ人達が立てこもったために、この場所も破壊されてしまった」。

 「ティトスは神殿を守ろうとしたのではなく、神殿の中にあった財宝を守ろうとした。ユダヤ戦争の本の中では、捕虜と戦利品の確保にティトスが執着していたことが記されている。将来の皇帝の華やかさとして、作者(顧問でもあったが)が、ローマでの凱旋で紹介できる、より多くの戦利品がティトスの手に入るよう、シニカルな理由でティトスが神殿の火災を止めようとしたとは書かないであろう」。

 ドロン学者は、近い将来出版される本の題名である、「占領されたユダ」のコインも、別にユダヤ人達を辱めるためでは無かったとしている。彼によると、ローマのコインはユダの反乱以前のずっと前から、同じ状態で支配された民族が紹介されているとしている。例えばガリア人、ブリタニア人、ゲルマン人なども同様である。

 当時最も苦難を受けたのはキリスト教徒であった。「これは古代を神聖化した世界であった。キリスト教は新しい宗教であり、敵対心や侮辱はユダヤ人ではなくキリスト教徒に対してであった。ローマでも、ユダヤ人達はシナゴーグで律法や祈祷を行っており、西暦1世紀と2世紀にシナゴーグを訪れたローマ人の証言によると、一部はユダヤ教に改宗してユダヤ人社会に入ったローマ人もいる」。

 「ユダヤ人達はローマ帝国で自由な権利があった。当時のローマの法律は、ユダヤ人にローマ帝国全土で権利を与え、軍への徴集の免除、安息日を冒涜しないようにポリスへの義務の免除、又は異教の神々へ犠牲を捧げることも免除されていた」と語った。

 ユダヤ賢者達は、神殿崩壊後にユダヤ人の日常生活に対する困難な規制を言及しているが、ドロン学者は、歴史的正確性に欠けていると主張している。「ユダヤ賢者達の本から分かっている宗教的規制、安息日の遵守の禁止、割礼の禁止、賢者の叙階の禁止は、西暦132~135年の第二次反乱、バルコフバの反乱直後に起きたことであり、第一次反乱から60年以上も後の事である」。

 「エルサレムと神殿の破壊後は、日常生活に戻った。ローマ人は比較的に忍耐強い政策に戻り、逆にイスラエルでのユダヤ人の生活には繁栄が訪れ、ヤブネ賢者達の指導の下に文化的開花もあった。”賢者指導者”という観念はフラビウス帝時代に作られ、ローマ人の宗教的寛大さが無ければ生まれなかった」。

 「事件の重要性さを軽視している訳ではない。しかし神殿の崩壊がジ・エンドでは無かった。危機、死人や捕虜も出たが、全体的に見れば、イスラエルの地に於けるユダヤ人の生活は継続し、ローマ帝国全土でも同様であった」と語った。

 

最新記事

すべて表示

モーセ五書と23個の事実:あなたの知らないトーラー

聖書の最も長い書物はどれか?モーセ五書のセレブは誰?エルサレムに神殿が建設されたとは何処に記述?(ヒント:書かれていない)。イスラエルの民はエジプトのピラミッドを建設したか?(ノー)。トーラー伝授の日、及びモーセ五書朗読の完了と開始の日を記念し、聖書に関した興味深い事実をここに記してみた。 1.一番長い書物 モーセ五書の中で最も長い書物は創世記である。50章と1,533節から成り立っている。創世記

スーコット祭の習慣と律法

◎ユダヤ暦5,772年スーコット祭 開始時間(9月20日)と終了時間(9月21日) エルサレム 18:02、19:13 テルアビブ 18:19、19:15 ハイファ  18:12、19:14 ベエルシェバ 18:20、19:14 ツファット 18:12、19:12 エイラット 18:09、19:13 ◎祭日 スーコット祭は、ティシュレイの月の15日から23日、つまり8日間続く。第一日目(最初の祭日

大贖罪日とは?神殿時代から今日まで

以前では大贖罪日は、大祭司の務めとして聖別されたものであり、イスラエルの民の罪を許してもらう為であった。今日祈祷が犠牲を捧げる代わりとなり、心の中の務めとして聖別されている。 ◎ユダヤ暦5,772年大贖罪日(9月15日開始時間と16日終了時間) エルサレム 18:09~19:19 テルアビブ 18:26~19:21 ハイファ  18:27~19:21 ベエルシェバ 18:27~19:21 ツファッ