マサダ訪問


 イスラエル独立以前から、青少年グループはマサダに登り、「マサダは二度と落とさせない」と周りの崖に向かって叫んでいた。つい最近までイスラエル軍でも現地で式典を催し、イスラエル人や海外のユダヤ人の多くの家族が、山頂で成人式を行うことを選んでいる。今日でもマサダ山頂にある巨大な貯水槽の壁にはオリジナルのグラフィティを見ることが出来、1943年にマサダからヘブロンへ向かった働く青少年グループの70人が徒歩で訪れたことを描写している。

 主にマサダは、ローマ軍から逃れることを期待してマサダに固執した、数百人のユダヤ人反乱軍に関するヨセフ・ベン・マティティヤフの描写によって自身の評判を獲得した。ローマ軍が攻落に成功する寸前に、反乱軍のリーダーであったエリエゼル・ベン・ヤイールが激しい演説を行い、女性と子供達も含む約1千人の人達に対し、奴隷として生きるより自由人として死ぬ方が良いと説得した。

 しかし彼等は純粋な自由の戦士であったのか?マサダ反乱軍指導陣はシカリ派であった。この呼び名はラテン語(Sica)から来ており、服の下にナイフを隠すことを習慣とし、政敵をそれで殺害していた。しかしこのマサダでは、シカリ派はローマ軍に対して戦わず、山頂での包囲戦準備を静観していただけで、それ以外の者達から罵声を受けていた。それ以外にも、ヨセフス・フラビウスによると、ある段階でシカリ派は、過越し祭前夜祭にマサダからエンゲディのユダヤ人達を襲い、ユダヤ人達を殺害している。この時の襲撃で女性と子供を含んだ700人が殺害された。本当に勇敢な自由の戦士であったのか、それとももしかすると殺人的な狂信的グループであったのか?

 詳細に描写されているこれらの事件全体は、ヨセフスの頭の中以外では実際に起きたことではなく、彼がこれらの事件の唯一の情報源となっている。ヨセフスに対する一般的な信頼度はどれほどのものか、彼の描写した内容に対する考古学的証拠は本当に実在するのか?

 長年かけて実施された考古学調査によると、全般的にヨセフスは信頼できる情報源であるとしている。様々な都市や遺跡、例えばカイザリア、エルサレム、ユダの荒野の要塞などに関する描写は、殆どが正確であると証明された。

 マサダの出来事に関する彼の描写は、他の歴史的情報が存在していないが、考古学的証拠はどうであろう?ヘロデ大王によってマサダが建築され、その約70年後に数百人のユダヤ人達がマサダに逃げ、ローマ軍の兵糧攻めという彼の描写は、全て考古学発掘によって明確に証明された。

 それらに対し、ヨセフスが伝えた他の詳細には、彼の描写と考古学的証拠の間には幾つかの矛盾が存在し、それらが何かを知ることも重要である。例えばヨセフスは、包囲壁が非常に特殊な方法で準備されたと明言している。「幅50キュピト、高さも同様であり、完璧に正確に一致する巨大な石の土台」。この詳細はまだその証拠が発見されていない。

 ヨセフスはまた、ローマ軍の突破地点をユダヤ人達が木の壁で強化し、ローマ軍がその壁を焼いたと描写しているが、斜道の真正面となる突破地点でも焼けた跡に関する考古学的証拠は見つかっていない。

 それに対し、発掘によってもう一つの斜道の証拠が発見され、北の宮殿の壁に対して作られており、多くの矢じりが発見されている。北の宮殿占領に関するマサダの内部抗争があったのか?

 これらの発見により一部の研究者達は、ヨセフスのマサダ攻略の描写は作り話であろうとという結論に至った。エリエゼル・ベン・ヤイールの演説はヨセフスの妄想だと全員同意している。何故ならヨセフスは、包囲戦の時に山頂におらず、同じ立ち位置ではなかったからだ。攻略や集団自殺の描写もある種の真実をベースとしているかもしれないが、ヨセフスは全体像を描写していないように思われる。実際には、勿論仮説ではなるが、マサダには様々な場所から集まった難民の集団がいたと思われる。シカリ派はもしかすると最後まで戦って自殺を選んだのかも知れない。もしかすると一部は北の宮殿に立て籠って戦い続けようとしたのかも知れない。ヨセフスは自身の理由により、彼等の事は無視し、集団自殺という話を紹介したのかも知れない。今日これをレイティングと呼ぶ。

 しかし自殺はシオニズムによって英雄的な行為として採用され、シカリ派は新しくブランド化された。この営業は重要だ。マサダを発掘したイーガル・ヤディン教授は、シカリ派に「熱心党」という名称を与え、この名称の方がシカリ派より今日知られており、それによって彼等に自由な戦士のみであるというイメージを与えた。彼等の殺人的狂信は忘れ去られたのだ。ブランド化、皆さんブランド化が重要なのだ。

 そうすると軍の軍帽の行軍はガムラで終わらせる方が適切ではないか?何故ならヨセフスは、ガムラのユダヤ人達は最後までローマ軍に勇敢に抵抗したと描写しており、ガリラヤのヨツバタや、ミクバルでさえも同様であった。

 ミクバルの砂漠要塞は東方から死海を臨み、今日ヨルダンのハシミテ王国領土内にある。そこにもハスモン王朝の宮殿とヘロデの宮殿があり、ユダヤ人反乱軍の拠点でもあった。ミクバルは西暦72年に攻略され、つまりユダヤ人反乱軍を鎮圧させることに固執していたローマ軍によってエルサレムの神殿が破壊された2年後である。マサダと同様に、ローマ軍はキャンプを設営して西側から斜道を建設したが、ここではマサダとは違い、ユダヤ人達は反撃に出た。不幸にも戦いの途中でエリエゼルという名の人物をローマ軍が捕まえ、もしユダヤ人達が降伏しなければ彼を十字架刑に処すと脅した。ローマ軍が命の保証をしたのちにユダヤ人達は降伏することに同意したが、要塞は破壊された。不幸にもミクバルはイスラエル国内には無いために、イスラエル人には余り知られていない場所となってしまった。

 1960年代初頭にマサダでは、シナゴーグが発見された。今日までイスラエル全国には、第二神殿時代のシナゴーグが8か所発見されており、ヘロディオンの要塞やマグダラなどが含まれている。マサダでは、ローマに対する反乱の約80年前までは、この遺跡はヘロデ大王の宮殿の馬小屋として利用されていた。反乱軍がこの場所を集会場所や共に学ぶ場所として改築した。マサダのこの場所で旧約聖書の巻物の一部が発見されており、その中にはエゼキエル書の乾いた骨の復活の幻の聖句であった。

 2010年以降、このシナゴーグの奥にある小さい冷房が効いた部屋には、ハバッド派の聖書写本専門家であるラビ・シムション・イスラエリが座っており、訪問者にこの場所の説明や彼の行っていることを微笑みながら忍耐強く説明してくれる。

 マサダは魅力ある遺跡で、今日でも研究は継続されているが、複雑で色々な主張がある遺跡でもあり、この遺跡を正しく理解するには深く知ることは重要である。

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