ヘロデ大王が妻と姑を処刑した要塞遺跡

 「素晴らしい強固な要塞が高い山の上にある」と2千年前のヨセフス・フラビウスが描写した、90号線から西側の「ミフガシュ・ハビクアー」の少し北に尖った山がある。この山には多くの歴史的なドラマ、強固な要塞、荘厳な宮殿や隠された財宝の話がある。エルサレムで新月が観測されると、毎回バビロンの離散の地までそれを伝えるために、毎月かがり火が焚かれた場所としても利用された。今日でも山頂に行くには困難だが、努力するだけのことはある。サルタバとも呼ばれるアレクサンドリオン要塞だ。

 ハスモン王朝のアレキサンダー・ヤナイ王(紀元前103年から紀元前76年まで)の時代に、ハスモン王朝は拡大して経済的にも繁栄していた。新領地の新住民からの税の徴収が王の財政を豊かにした。ヤナイ王の父親、ヨハナン・ホルカノス王は砂漠で要塞を建設した最初の人物で、その要塞はホルケニアと呼ばれている。アレクサンドリオン要塞はアレキサンダー・ヤナイ王の名前が由来で、彼が建設されたと考えられている。もう一つの可能性は彼の奥さんの名前、シュロミツィヨン・アレクサンドラからともいわれている。この要塞はサマリヤ山地の東側にあるホルケニア要塞から、北へ50kmほどの場所に位置しており、エリコから北の90号線に位置している。ここからはヨルダン渓谷、アダム橋からシケムへ上る道、ティルツァ川などが見渡せるようになっており、最大の利点は急こう配の山の山頂に位置しているため、今日でもそこへ上るには徒歩でも車でも多大な努力を必要としている。

 ヨセフス・フラビウスはヤナイ王の死後、寡婦のシュロミツィヨン・アレクサンドラはアレクサンドリオン要塞、マクバル要塞、ホルケニア要塞を死守し、そこで財宝を隠したと記している。

 この証言から理解できるのは、アレクサンドリオン要塞内にもより警護された場所があり、ハスモン王朝の歴代の王達がそこに財宝を隠したと思われる。それらの場所はまだ見つかっていないが、いつかその日が来るかも知れない。

 ローマが紀元前63年にユダを支配した時に、ヤナイ王とシュロミツィヨン女王の息子であるアレキサンダー2世はアレクサンドリオン要塞に籠城したが最終的に降伏し、アンテオケで処刑された。その後のヨセフスの書物により、アレキサンダー2世の遺体はアレクサンドリオン要塞に埋葬されたと記している。これは前例がないわけではなく、他のハスモン王朝の王であったマティティヤフ・アンティゴヌス王もエルサレムに埋葬されたとある。

 ヘロデ大王がローマからユダの支配権を得た時に、アレクサンドリオン要塞を含んだハスモン宮殿の全てを再建拡張した。紀元前30年にヘロデ大王にとってローマのパトロンであったマルコス・アントニウスがアクティウムの闘いでオーグストスに敗れ、ヘロデの支配に最大の危機を迎える。自分の王朝、正確に言うと自分の命の危険を感じたヘロデ大王は、オーグストスに会いにロードス島まで急いで行き、新しい皇帝に忠誠心を宣言して仲直りする考えであった。ヘロデ大王の妻でハスモン王朝最後の女王であったミリアムが、ヘロデ大王が不在中を狙って国民を扇動して反乱を起こさないよう、彼女を彼女の母親と共にアレクサンドリオン要塞に幽閉することを命じた。またヘロデの忠実な使用人であったヨセフに対し、もしヘロデが生きて戻ってこないようであれば、二人を直ぐに処刑するようにも命じている。

 オーグストスとの会合は大成功に終わり、ヘロデ大王は頭を切り離されずに帰国し、ユダの支配継続を確約された。しかしその一年後に彼はミリアムと姑を処刑することを決心する。この残酷な行為も十分ではなく、その22年後に彼はミリアムとの間にもうけた二人の息子も処刑し、二人が反乱を企てているという疑惑が原因であった。

 一方でヘロデ大王はコーシェルも含めて他のユダヤ律法は厳格に守り、ヘロデの残虐な行為を新皇帝が聞いた時には、とても有名な言葉を残している。「ヘロデの息子になるより豚になる方が良いようだ」。その通りにヘロデの宮殿では、豚のような動物の方が長生きするチャンスがあった。

 しかしヘロデ大王の残虐で狂気的な事件の描写をしたヨセフスは、ヘロデ大王はせめてこの二人の埋葬はしっかりと行い、アレクサンドリオン要塞のアレキサンダー2世(偶然なのかミリアムの祖父であった)の墓の隣に葬った。しかしどこにこれらの墓地があるのか?財宝を置いていた場所は?誰も知らない。

 アレクサンドリオン要塞は、かがり火の中継地として利用され、バビロンの離散の地に新月を伝える目的であり、アラブ人はこの場所を「ケレン・サルタバ」と呼んでいる。ミシュナーによると、「サルタバ」もかがり火の中継地の一つであった。

 「かがり火をどのように中継したか?長い杉の枝を束ね、油の木と麻のひと塊で巻き付け、山の上にのぼり、それに火をつける。それを手に持って上下に振り、二つ目の山頂でも同じことを同胞がするかを見届け、三つ目の山頂でも同じように続ける。何処から何処へかがり火を灯したか?ハミシュハー山からサルタバへ、サルタバからグリフィーナへ、グリフィーナからハブランへ、ハブランからベイトブリテンへ、ベイトブリテンからは動かさず、かがり火を山頂から麓まで持ってきて、かがり火を離散の者全員が見えるようにする」(ミシュナー、新年2:4)。

 既に1886年に、ドイツ人研究者が「ケレン・サルタバ」を古代アレクサンドリオン要塞と仮定したが、その重要な遺跡は今日まで一部しか発掘されていない。1980年代にヨーラム・ツァフリル学者とイツハック・マゲン学者が3シーズン発掘した。彼等は貯水槽の一部、山頂の壁のコーナー、ハート形に切られた柱廊を含む東サイドの迎賓ホールなどを発見した。その後全く他の発掘は行われていないのは残念だ。特にヘロディオン要塞でヘロデ大王の墓地が発見された後、彼が処刑したけれども彼の息子達の埋葬場所をアレクサンドリオン要塞にヘロデ大王が建設したと考えられる。

 アレクサンドリオン要塞の上水システムの調査では、他の砂漠要塞と同様に雨水を集める熟知された賢いシステムがあり、周りの山頂から集めた雨水を貯水槽まで引っ張ってきている。アレクサンドリオン要塞の場合には、遺跡の西側の低い場所から水の運搬を可能にしていた、密封水道システムのシフォンの希少な遺跡が発見されている。シフォン・システムはサルタバの西側に約1kmの長さで発見されている。

 まとめると、この要塞はハスモン王朝の要塞として始まり、ヘロデ大王の宮殿と変わり、離散の地へのかがり火の中継地として利用され、今でも素晴らしい景色を提供してくれている。

 ここに到着するには、90号線からアレクサンドリオン要塞の東側に向かう道がある。そのカーブの一つに車を残し、山頂まで歩いて行ける。とても急こう配な坂道で、マサダの「蛇の道」を思い起こす。もし4WD車ならば、大変な砂利道を上ることも出来、ヤフィット村の北側にあるビニール・ハウスから始まっている。この道は遺跡を西側から回り込んだ麓で終わり、どちらにしろ急こう配で大変困難な坂道を約20分かけて上らなければならない。シフォン・システムは他の場所にあり、遺跡の西側になる駐車場の西約1kmの所だ。山頂に上るのは大きなチャレンジだが、素晴らしい遺跡、古代からの地理的な美しさを残している砂漠の景色は努力に値するものだ。

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