ヘロディオンとヘロデ大王の墓の謎

 ヘロディオン国立公園を訪問すると、イスラエルの歴史に於ける4つの時代を体験することが出来る。イスラエルで偉大な建築家の一人であったヘロデ大王の宮殿と墓を訪れると、紀元前1世紀の時代へ引き込んでくれ、最後にマサダが陥落した西暦1世紀のローマに対するユダヤ人の第一次反乱時にシナゴーグとなったサロンに座り、我々を西暦2世紀に連れて行ってくれる、ローマに対するバルコフバの反乱(第二次反乱)の戦士達が作った地下トンネルへ降り、ヘロデ大王の浴場の壁に彫られた西暦4~6世紀のビザンチン時代の十字架。ヘロディオン要塞へようこそ。

 当時ガリラヤの領主であったヘロデ大王は紀元前40年に、自分の命を懸けて戦っていた。ハスモン王朝最後の王であるマティティヤフ・アンティゴヌスは、東方から来たパルティア王朝とつながり、ヘロデ大王をこの地域から追放するのが目的であった。ヘロデ大東はこの試みを乗り切り、いつかこの日が来るであろうと既に考えていたのかも知れないが、パルティアに勝利したこの場所で約20年後に、自分の人生の最期の墓にも利用した美しい自分の宮殿をここに建設することとなる。それを計画して実行した。彼が立てた荘厳な空間は、ローマ皇帝でも恥ずかしくない。ヘロデ大王が再建拡張したエルサレムの神殿について書いたのはユダヤ教賢者達であり、「ヘロデ大王の建築物を見ていない者は、人生で美しい建物を見たことがない」とまで言わせている。神殿は残らなかったが、ヘロディオン要塞を訪問すると、ヘロデ建築の質の高さが何か分かるだろう。

 ヘロディオン要塞の山頂は、要塞と宮殿として利用された人工的な丘である。4本の監視塔、接待用の荘厳なトラックリン、中央部屋(中温室)がある最先端の浴場には、世界でも最古の石製ドームが残っている。

 ユダヤ戦争の本でヨセフ・ベン・マティティヤフは、このような言葉で書いている、「…自分の家族と子供達の為に記念碑を建設した後に、ヘロデ大王は自分の記憶を残す為に、エルサレムから60リス(約11㎞)に丘を建設し、人間の手によって作られたもので、その形は乳房の形で、この名前で(ヘロディオン)呼び、更にとても荘厳に飾り上げた。丘の山頂は円形の塔で囲まれ、これらの塔に囲まれた場所にとても美しい宮殿を立てた。宮殿内部の部屋の見た目だけが素晴らしい美しさであったのではなく、壁も、コーニスも、外の屋根も豪華に装飾されていた」。丘に上るとこの記述が良く分かる。

 しかし最後には、ユダの歴史上でどの王よりもユダを統治した全能の支配者も死ぬこととなる。彼は当時の考えでは良い死に方をし、ナツメヤシ栽培と特に人気があったカキの香水製造から多大な利益を彼に与えた砂漠のオアシス、エリコの宮殿で亡くなった。

 ヘロデ大王のお抱え歴史家であったダマスコ人のニコラウスは、ヘロディオンへの埋葬を詳細に描写しており、生きている間に墓地を用意して彼の名前で呼ばれた。ニコラウスの文書は残っていないが、幸運にもヨセフ・ベン・マティティヤフがそれを読むことができ、埋葬を描写した文章を残してくれた。前代未聞の埋葬行列であったのは疑いの余地もない。

 「死者のベッドは全て純金で出来ており、宝石がはめ込まれ、様々な色で縫われた紫のカーペットが上を覆っていた。そのカーペットの上に紫の布で覆われた遺体が載せられ、頭には金の花輪の冠、右手には王の杖があった。ヘロデ大王の遺体の周りに家族や多くの親戚がおり、その後方に親衛隊、トラキア大隊、ドイツ大隊とガリア大隊が続き、全員戦争時のように武器を携帯していた。大隊の前方には武器を持ったその他の軍人達、先頭には軍隊長と将校たちが整然と並び、その後に500人の召使、お香を持った解放奴隷がいた。大王の遺体はヘロディオンまで200リスの距離を運ばれ、死者の遺言通りに都の場所に葬られた」。

 歴史家はこの時の重要性さを理解し、最後にこの言葉でくくっている、「これによりヘロデ大王の時代は終わった」。

 時代が終わり、大王は死に、彼と共に彼がもたらした壮大な繁栄、巨大な建築企画、そして彼への裏切りと考え、又は疑った全員に対して残酷な政策も終わった。この政策は例えば、彼の妻、義理の母親と三人の息子達が処刑されている。実際に大王の死によって家族は安堵し、命の危険が無くなったのだ。王家に属する楽しさなんてこんなもんだ。

 これに反してヨセフスは墓の建物の詳細、又はヘロディオンの埋葬場所に関する詳細を全く提供してくれなかった。無視できるかも知れない事実だが、これが神話への扉を開き、失われた墓を長い間探し求める旅を可能とした。

 ヘロデ大王の埋葬場所の謎は、考古学者達の興味を150年以上も駆り立てた謎解きとなり、まだ発見されていないと主張する者さえいる。ヘロディオン特定の最初の権利は、嘆きの壁のロビンソン・アーチとして知られている、偉大なアメリカ人研究者エドワード・ロビンソンが持っている。

 ロビンソンは19世紀に、聖地全国の詳細な地質学調査を実施した旅を行い、古代の遺跡の数十か所を見つけた。そのようにジャバル・フォルディス、この遺跡のアラビア語名だが、ヘロディオンのギリシャ名であるヘロディスを残しており、ベン・マティティヤフの描写に良く合っており、エルサレムから正確な距離(60リス、約11㎞)であり、彼が書いたように女性の乳房のような形状で、描写された通りに上の町と下の町によって構成されていた。

 既に当時、フランス人研究者であったド・ヴォーは、失われた墓を探して下の町を発掘した。1960年代にヨルダンの支援で、フランシスコ会が上の町全てを発掘した。1970年代からは故エフード・ネツェル教授が、遺跡の発掘調査を開始している。ネツェル教授はマサダのヤディン使節団の登録係であり、ヘロデの宮殿に関する博士号を書いている。しかし彼の最大の目的は、ヘロデ大王の墓を発見することであり、最も荘厳なものであったと考えていた。この夢は彼の人生のプロジェクトとなる。

 ネツェル教授は困難な条件下で40年間ヘロディオンを発掘し、第一次と第二次インティファーダでは中断を余儀なくされた。2007年の第二次インティファーダ終了と共に、彼は再度ヘロディオンでの最後の発掘を開始し、失われた墓を発見することが願いであった。絶望的にも見える試みで、墓に関連した遺跡が発見されるかもしれないとの希望で、上の町の側面を掘ることを決心した。その通りに北東部分で探していたものを発見し、巨大で印象的な石灰岩建築物の塊、多くの装飾された建築アイテムを含み、特別なピンク色の石で出来た大きな棺(石棺)の破片も発見され、現在イスラエル博物館で一般公開されている。碑文が発見されていないにも関わらず、ネツェル教授には疑いの余地もなくこれが失われた墓であった。記者会見を開き、このニュースは世界中でも一面を飾った。ヘロデ大王はただの人間ではなく、悪魔のような人物像でもあり、新約聖書やキリスト教の伝承では、ベツレヘムの赤ちゃんを全員殺しており、西欧諸国でも多くの興味を示していた。

 多大な関心は多額の調査予算をもたらし、ネツェル教授は墓周辺の発掘継続を安心して続けることができるようになり、他のサープライズも発見された。要塞に通じる階段システム、ヘロデ大王と来賓用の小さい半円形野外劇場とその上にあるVIPルームで、そこを訪問すれば、メル・ブルックスの不滅の言葉の意味を深く理解する「It's good to be a king」。この部屋には美しい壁画や、小さい窓の絵も描かれており、そこからナイルやワニの景色が広がっている。ヘロデ大王はユダヤの荒野にローマを持ってくることに満足せず、エジプトのナイル川にも気持ちを寄せていたようだ。ビデオ・マッピングぐじゅつで壁には動画が映写されており、ヘロデ大王が生きていた時代の通りにこの部屋の素晴らしい瞬間を復活させている。王室用の窓からはエルサレムが望めるようになっており、遠くにはオリーブ山の山頂にある塔も見える。王の天国とはこういう場所だ。

 しかし最大のサープライズは、墓で発見された2個の石棺であった。本当にこれがヘロデ大王の墓なのか?もしかすると家族の者では?碑文が全くない。これらの新しい発見は遺跡への多大な興味を生み、イスラエル博物館は特別展示会を催すことを決定し、最も多くの訪問者がその展示会を訪れた。残念ながらネツェル教授はこの展示会を見ることはできなかった。展示会設置に向けてヘロディオンで会合した後に、野外劇場付近で躓いて重傷を負った。2日後に病院で死亡した。ご冥福を祈る。

 ヘロデ大王時代の多くの荘厳さと墓以外に、考古学発掘によってヘロディオン要塞はユダヤ人の反乱にも利用され、ヘロデ大王のトラックリンがシナゴーグとなったユダヤ人の第一次反乱(西暦66~73年)と、バルコフバの反乱(132~136年)である。バルコフバの反乱時には、この要塞は地方司令部として利用され、反乱のコインも鋳造され、もしかすると反乱のある時期にバルコフバ自身もここに滞在していたのかも知れない。ヘロディオン要塞から反乱軍兵士達は、他の反乱軍の拠点に手紙を送っていた。ヘロディオンで書かれて送られた、これらの手紙の一部がエンゲディ付近のミフラット洞窟で発見されている。

 今日ヘロディオンでは、入口の近くに塔石器の弾丸が山積みになっており、ローマ軍に対してユダヤ人のゲリラ戦を可能とした、地下貯水槽の間に作られた戦略的なトンネルもある。しかし最も興奮する発見物は、ヘロデ大王の宮殿の応接の間をシナゴーグへと変えたことであり、その近くには沐浴場も掘られている。このような大変な時代でも、反乱軍は宗教的儀式を保守することに努め、身の清めを厳守し、民衆の前で聖書を朗読していた。これら全てが訪問者を待っている。カメラを持参することをお忘れなく。

 ヘロディオンは自然公園局の責任下である国立公園で、ここ数年間前代未聞の開発がなされている。入口には小さいビジターセンターがあり、ヘロデ大王埋葬の行進を見せてくれる、コンピュータアニメの動画が鑑賞できる。ヘロディオン要塞の下に、まだどれほどもサープライズや謎が隠されているか誰も知らない。まだ発見を待っている墓があるのか?一つだけ確実なのは、この遺跡の調査を継続する必要があることだ。

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