トゥフィリン(祈りの箱)

 ”全ての律法は口伝律法による。例えばトゥフィリン律法だ。聖書には「またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし」(申命記6:8)としか書いていない。動物の皮で出来た2個の黒い箱を、手とおでこに付けろとは何処にも記されていない”(ラビ・ウーリー)。

 ”トゥフィリン律法には、「そして、これを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとしなければならない。主が強い手をもって、われわれをエジプトから導き出されたからである」(出エジプト記13:16)。何が印かは詳細が書いておらず、どちらの手か、手の何処なのか?「覚え」とはどういう意味か?ここに代々伝わっている口伝律法が入り、どのように律法を実行すれば良いのかが分かる”(ラビ・シュムエル)。

 ”聖書を学ぶ者は神のみ旨を行い、律法を実行することを希望する。口伝の説明が無ければ、そこに書かれている指示の意味が分からずに立ち尽くすだけだろう。例えば聖句の「これを手につけて、しるしとし」を読んだだけでは何を付けるのか、どのように何処へつけるのかなどが分からない。聖書は完全なのか?腕の何処か?手につけるものの色や形に重要性があるのか?他にも多くの疑問がある”(ラビ・ザミール)。

 ユダヤ教賢者達は、申命記6:4~9の「イスラエルよ聞け」の祈りにトゥフィリンの律法を見出している。8節には「またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし」と記されている。その数章後にも同じような聖句があり、「それゆえ、これらのわたしの言葉を心と魂におさめ、またそれを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし」(申命記11:18)とある。

 この二つの聖句を基本にし、ユダヤ教ラビ達はトゥフィリンに関する形状、腕と頭の巻き方などの詳細な律法指示書を作り上げた。これも「覚えとし」という言葉が、黒い色の皮の紐を持った箱であるという想定を元にしている。本当に神様は、人間が動物の皮の色付いた紐を腕に巻くことで神に近づくことを意味したのか?もしそれが真実であるならば、何故ユダヤ民族の1千5百年間の歴史となる聖書の何処にもそれが書いておらず、聖書の人物の誰もトゥフィリンを巻く描写は無く、どの登場人物もラビ達が言うトゥフィリンの律法に関係したことを何も描写していない、一度も無いのは何故か?

 この事実が次の疑問を呼び起こす、ラビ達は「覚えとし」をどうやって「トゥフィリン」と理解したのか?「トゥフィリン」という言葉は一度も聖書に出てこない。ユダヤ教賢者達は「覚え」(トテフェット)という言葉を取り、その関係性を無視し、トゥフィリン(動物の皮で出来た神聖な道具)であるとした。しかしトテフェットの語源はアラム語でトテフタ、女性のジュエリー又は飾りという意味がある。という事は、ジュエリーは自分にとって大切であり、その存在を忘れることは無いので、シンボル的な意味としてジュエリーのように神も自分の心と思いにとって大切であり、このようにいつも神を覚えよという意味である。

 トテフェットという言葉のオリジナルの聖書の意味は、出エジプト記13章の9節と16節に出ている、殆ど同じような2個の聖句の比較により、容易に理解可能となっている。

「そして、これを、手につけて、しるしとし、目の間に置いて記念(記憶)とし(ジカロン)」(出エジプト記13:9)

「そして、これを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし(トテフェット)なければならない」(出エジプト記13:16)

 9節は16節の注解書で、「覚え」(トテフェット)が「記憶」(ジカロン)と併記されている。この聖句は、両目の中間に物理的なジュエリーを付けることを言っていない。その美しさに見とれて高価なジュエリーを付けることを人間が覚えているように、エジプトの地から救った神を覚えておく必要があるという意味である。この聖書が書かれた時に、数百年間苦しめられて耐え忍んだ後に、神がエジプトから印と奇跡で民族を救い出したのだ。出エジプト記13章は、起きた出来事を代々に記憶するという重要性が強調されている。この聖句が示している身体の部位も同様に重要である。目と目の間というのは我々の思考力の中心を表しており、両目が我々を導いてくれる。この意味は、神に対する民族の信仰は行動(手につけて)、思考(目の間に)と心(心と魂におさめ)によって表現されなければならない。

 ここでユダヤ教賢者達がこれらの聖句とトゥフィリンとに、関係性を創作したことについて反論したいと思う。もし本当に神がこの律法を毎日実行することを要求し、もし本当にこれがそれほど重要であるならば、前述のように聖書の中に数百の描写、又は数千の描写で、イスラエルの民がトゥフィリンを巻いていたことを発見しなければならない。サウル、ダビデやソロモンなどの王達がトゥフィリンを付けていたという内容を読むことを期待してしまう。聖書の預言者達も同様の事をし、最低でも民族に対してこの律法を実行しなければならないことを証明していて欲しかった。しかし実際には何一つも書かれておらず、聖書のヒーローが人生の中でトゥフィリンを一度でも巻いたというヒントさえない。

 ユダヤ教ラビ達の教えは、これらの聖句を言葉の意味だけとして実行させている。しかしこれらの聖句への言葉的な解釈の問題は、目の間と手だけに覚えを置くだけではなく、「心に」も「口に」も置くことを命令している。もしそうならば、何故ユダヤ教ラビ達は皮の紐を胸と口にも巻かないのか?箴言3章3節には、「いつくしみと、まこととを捨ててはならない、それをあなたの首に結び、心の碑にしるせ」とある。何故ユダヤ教ラビ達は、この聖句を言葉の意味としてトゥフィリンを喉に巻かないのか?

 出エジプト記と申命記の聖句に関するユダヤ教ラビ達の解釈には他の問題もある。それは文献学と性別の観点に関係している。聖書の律法は幾つかのグループに分けることが可能だ。例えば「~せよ」という律法に対する「~するな」の律法、又は時間が起因した律法に対する時間に依存しない律法。もう一つのグループ分けは、何を対象(テーマ)としているかの種類分けで、つまり律法が向けられた人口のグループ別という意味である。通常4つのグループに分けられる。1)男性のみを対象とした律法。2)女性のみを対象とした律法。3)イスラエルの民の中から定義されたグループ(祭司やレビ人)を対象とした律法。4)イスラエルの民全体に向けられた律法。

 例えばレビ記18章は男性のみを対象とした律法が幾つか詳細に記されている、同様にレビ記19章27節にも。レビ記12章と民数記5章12~31節は、女性のみを対象とした律法となっている。レビ記6章とレビ記16章2~26節は祭司のみを対象とした律法であり、レビ記14章にはらい病人を対象とした律法がある。この最初の三つのグループに属さない他の全ての律法は、女性も男性も等しくイスラエル全体を対象としている。律法の内容が男性形であったとしても、男性のみを対象としている訳ではない。例えば十戒の「安息日を覚えて、これを聖とせよ」(出エジプト記20:8)、又は「あなたは殺してはならない」(出エジプト記20:13)は、勿論この二つの律法も男性形で書かれてはいるが、男性にも女性にも要求している内容である。

 ここで申命記6章4~9節の律法に戻ってみよう:

 「イスラエルよ聞け。われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。きょう、わたしがあなたに命じるこれらの言葉をあなたの心に留め、努めてこれをあなたの子らに教え、あなたが家に座している時も、道を歩く時も、寝る時も、起きる時も、これについて語らなければならない。またあなたはこれをあなたの手につけてしるしとし、あなたの目の間に置いて覚えとし、またあなたの家の入口の柱と、あなたの門とに書きしるさなければならない」。

 女性も男性も同様にイスラエルの民全体に向けた律法であるのは明確だ。しかしこの部分で8節のトゥフィリンに関する問題が発生する。律法によると男性のみがトゥフィリンを付けることになっている。明確に解釈されている、「女性はトゥフィリンを付ける必要はない。もしそれでも頑なにトゥフィリンを付けようとするならば、それに抗議する必要がある」。もし8節に記されている覚え(トゥフィリン)は、男性のみを対象としているならば、何故同じ聖句に詳細に記されている他の律法を女性も実行する必要があるのか?例えば彼女達は主を心から愛する律法(5節)は免除されているのか?これは聖句をその関係性から粗悪に取り出したことを証明する矛盾があるからだ。

 ユダ・エリツォール教授は、出エジプト記13章9節の「手につけてしるしとし」の言葉のラシュバム(ラビ・サムエル・ベン・メイアー)の解釈に関して記しているが、ユダヤ教ラビ達によってその解釈は削除された。ラシュバムはこう唱えた、「単純に理解するならば、"手に記されているようにいつも覚えていなさい"」という意味である。ユダ教授は、殆どの人達がトゥフィリンの律法が聖書からの教えであると考えているのに対し、「ラシュバムは一般的な意見に同意せず…トゥフィリンの律法は聖書の解釈に過ぎず、単に別の物であると強調している」と追記している。つまり、ユダヤ教賢者達の中にもシンボル的な律法でしかないと解釈していたのだ。しかし他のユダヤ教ラビ達はこの解釈を否定して削除してしまった。ラビ・シャロン・シャローム学者もまた、後世の時代になって初めてユダヤ教ラビ達が、律法の象徴的な次元だけに満足せず、律法に新しい実用的な意味を与えることを決定したと認めている。

 研究者達はトゥフィリンを巻き付ける習慣は、トゥナイーム時代以前から民族の中で行われていたと教えている。トゥフィリンに相似したお守りが、偶像崇拝の古代文明で普及していたことが判明している。主に中東であった。メナヘム・ヘレン教授は、「”覚え”と”しるし”は、悪魔の黒魔術のシンボルが起源となっており、このようなお守りを頭や腕にとりつけて使用するのが古代世界での習慣であった」と説明している。

 他のお守りに起きたようにここでも同じことが起きたようだ。パリサイ派のラビ達は、偶像崇拝者達の行っていた儀式の一部を受け入れ、それをユダヤ教化したのだ。メソポタミア地方での多くの異教徒文明では、身体に巻き付けるお守りの使用が普及していた。例えばエジプトでは、パピルスに文字を記し、折りたたんで箱に縫い込んだ亜麻布に入れ、このお守りを持った人が祝福を受けるという信仰があった。

 トゥフィリンの律法は、無生物(皮の紐)が腕に巻き付けられると、祈祷者と神との間に神秘的な結合が起きる、超自然的な美徳を与えられた聖なるお守りになるという事を基本にしている。確かにユダヤ教賢者達は、トゥフィリンを守護の力を持つお守りと見なし、悪霊や悪魔を追い払うことが出来ると見ていた。トール・シナイ教授は、ユダヤ教賢者達が決めた形状のトゥフィリンは、古代エジプトから取られたもので、トゥフィリンと相似したお守りとして蛇を頭に巻き付けていた可能性を挙げている。イェホシュア・ベラオ教授は、ラムバムの書物(お守りの使用を嫌ったが)にも、お守りとトゥフィリンとの間に関連性があることを明らかにしている。

 バルイラン大学ユダヤ教研究者のラビ・シャロン・シャローム学者は、エチオピア系ユダヤ人会衆の信者達は、トゥフィリンの律法の聖書伝統を全く知らなかったと明言している。彼等の宗教事典に全くこのような習慣が存在しないという事実は、律法の歴史に多くの疑問を引き起こす。この聖なる習慣はユダヤ教ラビ達の教えのみからであり、その他の古代文献には全く言及されていないということだ。エチオピア系ユダヤ教からトゥフィリンの律法が消えているという事実は、第一神殿が崩壊した後のみにユダヤ民族に浸透した儀式であるという証拠で、バルイラン大学ノアム・ゾハル教授もこの説をサポートしており、彼はユダヤ教賢者達がトゥフィリンの教えを第二神殿時代に作り上げたと主張している。それ以前には、「そして、これを手につけて、しるしとし、目の間に置いて覚えとし」という聖句は寓話的に解釈され、つまり律法は心と脳に刻まれるものだとしていたと教授は主張している。後の時代になってからユダヤ教ラビ達は、この聖句に実用的表現を追加した。ノアム教授自身も、エチオピア系ユダヤ教がこの習慣を全く知らないという事実を証拠として挙げている。聖書辞典に於いては申命記6章8節の聖句を単純に理解すると、「”覚え”というのは実際の物体ではなく、”記憶”の比喩である」としている。

 ”クムランで発見された古代のトゥフィリンに関しては?

 同様なトゥフィリンと共に、2千年間の離散後の世界の各地から、どのようにユダヤ人達が戻って来たか見てみろ”(ラブ・ダニエル・バラス)。

 ”クムランの洞窟で頭のトゥフィリンを見つけた時に、2千2百年間トゥフィリンは変わっていない。イスラエルの民は正確だ、何故ならこのように受け取った物を正確に次世代へ伝えるからだ…今日の解釈は当時の解釈と同じである。それ以上でもそれ以下でもない。全てが正確で、それは不思議ではない。シナイ山でモーセが受けたものは、次の世代へ伝えられ、そのまた次の世代へ、このように今日まで続いている”(ラブ・ザミール・コーヘン)。

 まず第一に哲学的言語では、「ノン・スクイター」と呼ばれる理論的失敗(不合理な結論)であり、この主張の結論(口伝律法はシナイ山で与えられた)は、前提(トゥフィリンの習慣は古代のもの)に由来するものではない。伝統の歳月は、その「神性」を証明するものではない。また直ぐに分かるように、全てのトゥフィリンが同一のものでもない。

 第二に確かに2014年に「最古で最小のトゥフィリン」という見出しの記事が掲載され、クムランで発見された2千2百年前のトゥフィリンの事である。ユダヤ教ラビ達の中には、この発見は聖書が執筆される以前からトゥフィリンがあったことを証明していると主張しており、逸脱していない厳格に今日まで保存された、シナイ山のモーセから口頭で言い伝えられた正確な聖書の証拠であるとしている。トゥフィリンに関しては聖書律法ではないことは明確であり、ラムバムの聖書注解書と、シュルハン・アルーフ(トゥフィリンの教え)の注解書に記されている。つまりシュルハン・アルーフでは更に、「不正なトゥフィリンを身に着けた者は、律法を実行していないだけではなく、無効な祝福を何度も述べ、これは大きな罪となる」と書かれている。その後にモーセから始まりラビ達で終わる、代々に伝わったトゥフィリンがどのような形状か、非常に正確な内容で記されている。

 しかしこれは悲しい間違いだ。これらのトゥフィリンを研究したヨナタン・アドラー学者は、古代のトゥフィリンと現代のトゥフィリンの間に多大な相違があると発見している。サイズ、形状、色も違い、今日トゥフィリンの中に組み込まれている聖句の内容でさえも違っていたのだ!もしそうならば、古代のトゥフィリン(今日のトゥフィリンでも結構だが)は、不正のものであるとされてしまう。ということは、古代のトゥフィリンの発見は、聖書執筆以前からイスラエルの民の間でこのようなお守りが存在していたことを証明し、今日のトゥフィリンは当時のトゥフィリンとは違い、その為にトゥフィリンの存在は口伝律法の存在を矛盾させることにり、古代トゥフィリンとユダヤ教ラビ達のトゥフィリン間での相違は、シナイ山から完全な継続性でトゥフィリンに関する指示が伝わっていなかったとこととなる。このように古代のトゥフィリンが、口伝律法の存在の証拠であるという事に依存することは、「自爆行為」に等しいのである。

 確かに様々な黒魔術、魔法やお守りの使用が、中世の時代になってユダヤ教ラビ達の間でピークに達した可能性があると、ギデオン・ボヘック教授は主張しているが、既に第二神殿時代からお守り産業はユダヤ教賢者達から認められていたことは分かっている。その証拠としてミシュナーでは、特に注意も払わずに、異教徒達の間の習慣として、トゥフィリンが異教お守り産業の不可欠な一部であったと暴露している。

 頭にトゥフィリンを置く影響に関する「科学的な」研究結果が発表され、ユダヤ教ラビ達は「トゥフィリンのオーラ」と呼ばれることに関して話すのが好きだ。彼等によるとトゥフィリンを付けた者は、精神力が増加すると言っている。本当にこの主張は正しいのか?もしそうならばどういう意味なのか?

 この研究の崇拝者たちは、トゥフィリンを頭に乗せた研究対象者達の精神的エネルギー量の増加を発見したと報告している。他の研究を発表したスティーブン・シャーム学者は、頭と腕のトゥフィリンとの接触部分が、中国の鍼療法の棘点と同様であり、その場所を通じて精神エネルギーを上昇させるとしている。また彼の研究では、トゥフィリンを付ける方法は、中国医療の治療方法と相似していることを証明している。

 しかしもしその研究結果が正しいのであれば、トゥフィリンがエネルギーを増加せるものではないという意味になる。トゥフィリン自身には精神的影響は全くない。つける場所が状態を変えるからだ。つまりトゥフィリンを足や腹の周りに巻いたとしたら、素晴らしいエネルギーの影響は何もないという事だ。同時にもし頭や腕にワインボトルのコルク栓や室内スリッパでも巻けば、同じ「オーラ」の結果を受けるということになる。

 真実を語ろう。結論的に毎年数百万シケル動かす産業である。トゥフィリンの素材は高価ではないが、神聖な道具であるがために、ユダヤ教ラビ達のスタンプを受ける必要がある。トゥフィリンの値段は750~1,500シケル相当だ。それに加えてユダヤ教ラビ達は、信者達に対して毎年トゥフィリンを調べ、不正と認定されれば交換することを奨励している。毎年数百万シケル動かす産業であるのだ。

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