キプロスとドック要塞の物語

 ネットフリックスの新しいドラマではなく、山あり谷ありを通った2,100年前のユダヤ帝国であり、荒野の宮殿や要塞を残してくれた。キプロスとドック、また何度も再建された荘厳な宮殿へ招待する。

 紀元前67年は、ハスモン王朝にとって最低の年であった。サルタバ要塞を建設したハスモン王朝のアレキサンダー・ヤナイ大王の寡であったシュロミツィヨン女王は亡くなり、残された二人の息子達、アリストブロス二世とヨハナン・ホルカノス二世は、王権を争い合った。長男であったホルカノス二世が王朝を継承するはずであったが、将軍であったアリストブロスには違う計画があった。エルサレムでホルカノスを包囲し、大祭司という役職で満足するように強制した。ホルカノスはそれで納得し、両者の契約を承認する為に二人の子供達を結婚させたりもしたが、ハスモン王国の統合というにはほど遠い状況であった。

 その通りにその4年後には、エルサレムの城門にローマの将軍であるガイウス・ポンペイウス・マグナスが到着し、シオンに住む民族に対して「新しい中東」を宣告した。独立したハスモン王朝の支配を抹殺したのだ。これからはローマ帝国に従わなければならなくなり、ユダ王国はユダヤ属州へと変わってしまう。

 長男であったヨハナン・ホルカノスは、再度統治者となったが、「王」ではなく、ローマの恩恵を得た地域支配者としての「エスナルク」として定義され、ローマ統治下の操り人形のようであった。原住民に誰が新しい支配者化を示す為に、反乱(又は救世主願望)というような考えを起こさないように、ポンペイウスはハスモン王朝が百年前に建設した荒野の要塞の破壊を命じる。

 ギリシャ歴史家のストラボンは、ポンペイウスがエリコの上にあった二つの要塞を破壊するように命じたと記している。「彼(ポンペイウス)は彼の力の限り、全ての城壁を破壊し、投石機や要塞の倉庫まで壊滅させるように命じた。何故ならばエリコへ通じる道路にこのような要塞が二箇所あり、テラケスとタウルスと呼ばれ、アレクサンドリオン、ホルケニアとマクバルと…」。

 ユダヤ人歴史家のヨセフス・フラビウスは、テラケスとタウルスの名前を記していないが、エリコの上に二つの要塞があったことを描写している。一つはドック、又はダゴン、二つ目はキプロス。両社とも現在でも残っており、一部は発掘されているが野放し状態で、でも写メには良いので現地まで行ってみた。

 ドックはハスモン王朝要塞の中で最古と見られ、ハスモン王朝創設者のマティティヤフ祭司の二人目の息子のシモン・ハタルシの時代に既に言及されている。シモンは最も偉大な軍人と政治家として考えられている。ギリシャ・セレウコス朝から税の徴収を免れ、自分の硬貨を鋳造して良い許可も得た(利用しなかったが)。

 その後アンティオコス七世がセレウコス家の土地であるという主張で税の取り立てを要求してきたが、シモンは誇りあるシオニスト的な宣言で回答し、今日でも有効な内容である。

 「我々は外国の土地を奪ったのではなく、自分達の外国の財産を持っていたのでもなく、何故なら我々の祖先の土地で、時折裁きも無しに征服されたからである。我々に機会があった時に、先祖の土地を取り返したのである」(ハスモン王朝記上15章)。

 しかしアンティオコスはユダヤ人の税金を直ぐに諦めなかった。シモンの婿であったタルマイに賄賂を渡し、ドック要塞で家族で王族の食卓にシモンを招待し、紀元前134年頃に宴会中に彼にとびかかって殺したのである。「そして彼の最愛の息子は、彼が立てたドックと呼ばれる要塞に欺いて呼び出し、彼らに宴会を開いて人を隠しておいた。シモンと息子達が酔った時に、タルマイは立ち上がって彼といた者は武器を手に取り、宴会場のシモンの所へ来て彼を殺し、二人の息子達と召使の一部も殺した」(ハスモン王朝記上16章)。

 この残虐な事件に唯一いなかったヨハナン・ホルカノスは、その後王となって母親と二人の兄弟を救うためにこの要塞を包囲したが、残虐な義理の兄は彼らを殺害してフィラデルフィアに逃れた、現在のアンマンである。

 この場所は呪われた要塞となり、ホルカノスは二度とこの要塞を使用せず、彼の統治下ではユダの荒野のど真ん中に新しい要塞が建設されて、彼の名前を取ってホルケニアと呼ばれた。

 ヘロデ大王が、ハスモン王朝の他の荒野要塞へしたように、ドック要塞を再建したかどうかは不明であるが、その数百年後にドック要塞は「ブランド変更」され、修道院が建設されて聖地となった。4世紀にドック山頂にハリトン・ユダの荒野修道院が建設された。そこには「ドカ」と呼ばれた修道院が建設され、その後にその場所はキリスト教によって、イエスが悪魔の最後の誘惑を受けた場所とされた。20世紀初頭には、ギリシャ正教教会がドックの山頂に新しい教会を建設し始めたが、今日までそれは完成していない。ドックの東側の崖に沿って、山頂から真下になるが、今日でも活動しているもう一つの修道院が存在し、そこもイエスと悪魔との闘いの場所として認識されており、カランタル修道院と呼ばれている。

 現在までドック山頂では発掘が行われておらず、将来も行われないと思われる。ハスモン王朝時代の要塞遺跡が発見される可能性は大であり、もしかするとそこに物凄い宝物も発見されるかも知れないのに、とても残念なことである。青銅の書物、とてもミステリーな巻物で、今日ヨルダンで展示されているが、60か所の様々な場所に財宝が隠されていると描写されている。32節には宝の隠し場所の描写がこう記してある。「ドックでは、東側の床の角に、7アモット掘れば22個」。

 「床の角」とはワイン製造工場の意味で、22個というのは22キカリン(勿論100%銀)という意味で、キーカルとは約26㎏に相当する重量である。1kgの銀は今日約870ドルに相当する。22×26×870=50万ドル、大した額ではない。

 ヘロデ大王がドックを再建利用したかは明確でなくとも、エリコを望むもう一つの崖の上に荘厳な要塞宮殿を建設したのは分かっており、それがキプロスだ。この遺跡の場所も、エリコからエルサレムへ上る古代の道路を望んでおり、ヘロデ大王はナバテア人の王族であった自分の母親の名前、キプロスをその要塞に与えた。

 キプロスでは、1974年に急いでだがちゃんとした発掘がなされた。エフード・ネツェル教授とイマヌエル・ダムティ考古学者は、二階建ての宮殿を発見した。一階には浴場が素晴らしい状態で発見された。希少で高品質な床模様で「オポス・スカティラ」と呼ばれており、1.5トンの重量がある希少なカラフルな石の浴槽も発見されている。今日復元された浴槽がイスラエル博物館にある。キプロスは、聖書ではケリテ川とされているワジ・ケルトの泉から水道橋で水を供給されていた。水道橋のほんの一部しか残っていないが、ワジ・ケルトでは今日でもオスマントルコ時代の水道溝が、エリコへ向かって水を流しているのは絵画のようだ。

 キプロスでもドックでも、エリコのオアシスを見渡せるようになっており、ハスモン王朝にとってもヘロデ大王にとっても、最も重要な経済利用価値があるバルサムの栽培であった。この香油は、重量に沿って金で支払われ、ローマ帝国内で最も需要が高く、医療用、女性の間や宗教儀式にも使用され、エンゲディや特にエリコの特殊な気候条件のみ栽培できるものであった。

 バルサム製造からの多大な利益は、周りを囲むための要塞を建設する主な動機でもあったに違いないが、それだけが理由でもなさそうだ。ハスモン王朝もヘロデ大王も、砂漠のオアシスに壮大な宮殿を建設している。この宮殿はアラビア語で「トールール・アブ・エルアルイック」と呼ばれており、ここもエフード・ネツェル教授によって1980年代に発掘された。その発掘では特にヘロデ大王時代の荘厳な跡が発見されている。ここにはホルカノスが初めて宮殿を建設したとされており、ハスモン王朝の後継者達によって4段階で拡大された。ヘロデ大王はその近くに3つの宮殿を追加し、長方形の医師を縦横(パティン・ヘッド)に配置し、安定した構造にする「オポス・クワダートゥム」を全体に組み込んだ、豪華な迎賓用の応接間を含んでいる。オールインクルードの五つ星ホテルはここだ。

 ここも残念なことに遺跡はちゃんとメンテナンスされておらず、ここにあった当時の豪華な建物は想像するしかないが、それでも遺跡のサイズと豊かさは今でも健在だ。今日遺跡は全てパレスチナ自治区となっているか、パレスチナ自治区を通らないと到着できない。その理由からこれらの要塞に行くにはイスラエル軍との事前調整が必要だ。

 バルサムの香油はビザンチン時代にも製造されたが、イスラム教時代にそれが中止され、その後植物的認識さえも失われてしまった。近代的な研究により、その側靴は「コミフォーラ・ギラデンジス」(アラビア・バルサム)と呼ばれるアラビア半島とアフリカ東海岸原産の低木であったとされている。キブツ・エンゲディやエリコ南部でも、バルサムの栽培実験が成功しており、香油が製造されている。エルサレム出身のガイ氏が、既に10年以上キブツ・アルモグで植えられたバルサム低木の農地で香油を製造している。最初の頃は匂いには特徴が無かったが、今日では低木から香る匂いはとてもリッチ、リフレッシュでサープライズだ。

 またガイ氏は、バルサムの香油をフランキンセンス・オイルとオリーブ・オイルと一緒に沸騰させると、非常に関連性のある医学的価値の液体が得られ、呼吸を楽にすることが分かっており、コロナ感染者がこの油を飲むと呼吸が楽になったと報告しており、それ以来この素晴らしい油を買いに来る客足が止まることは無い。彼も自分のバルサムの畑を守るために、ハスモン王朝やヘロデ大王のように周りを囲む要塞を建設するのだろうか?

最新記事

すべて表示

テル・ラキシの発見:アルファベットの欠如部分

低地のテル・ラキシで、古代アルファベットの歴史で「欠如部分」が発見されたか?このように考古学者達は考えており、Antiquity誌に研究を発表した。2018年に発見され、今回公表された陶器の破片に書いている文書は、紀元前1,450年頃のものとされており、研究者達はアルファベットの進化のギャップを埋めるものと信じている。 研究者達は、今までに謎に包まれていた、アルファベットが進化した同じ時期である、

ヘロディオンとヘロデ大王の墓の謎

ヘロディオン国立公園を訪問すると、イスラエルの歴史に於ける4つの時代を体験することが出来る。イスラエルで偉大な建築家の一人であったヘロデ大王の宮殿と墓を訪れると、紀元前1世紀の時代へ引き込んでくれ、最後にマサダが陥落した西暦1世紀のローマに対するユダヤ人の第一次反乱時にシナゴーグとなったサロンに座り、我々を西暦2世紀に連れて行ってくれる、ローマに対するバルコフバの反乱(第二次反乱)の戦士達が作った

イスラエルには、地域で最多の210か所以上の水道トンネルの泉

大量で力強い安定した深刻な水源不足と、年間雨量の季節的と年間的変動を含んだ半乾燥地の地中海性気候などの様々な環境条件により、歴史を通じてイスラエルの山岳地帯に人間が定住しに来ることは困難となっていた。これらの条件により、変動的で不安定な供給がされる地層泉などの、山で唯一辿り着ける水源付近に人が住み着くようになった。「イスラエルの山岳地帯で人間が利用できる唯一の水源は、とても少量の帯水層を排水する地

熱気球 - ピンク
パイナップルのアイコン - イエロー
包まれたギフト
Wine%20Bucket%20Icon_edited.png
イスラエルのフォトアルバム

© 2020 Saigoaki. All Rights Reserved.