オールドマンの復活と汚職への抗議。1955年の総選挙

 国防大臣と首相との間にあった敵対心と緊張感、政党の分裂と、「選挙のヤカンは沸騰点に達し、その沸く音は全国に鳴り響いている」。今日起きているような話だが、これが1955年7月にあった総選挙の新聞見出しであった。

●1959年第三回国会総選挙:

有権者数 105万7,795人

投票率 82.8%

立候補政党数 19政党

議席得票率 1%

 第三回国会総選挙の中心には、ダビッド・ベングリオンの政治復帰があり、1953年にキブツ・スデー・ボケルに一度引退していた。彼はネゲブの平屋に住んでいた時でも、彼の身辺にいた人達を通じて様々な政策に関係していた。例えば「報復作戦」の政策を当時の参謀長官であったモーシェ・ダヤン将軍と推進させ、首相であったモーシェ・シャレットに秘密裏に行われた。

 エジプトでイスラエルのスパイが逮捕されて一部が処刑された「屈辱のビジネス」事件は、ピンハス・ラボンを国防大臣の地位から退け、その後任としてベングリオンが政治に復帰した。

 ベングリオンが政治に戻ることは、彼が次の総選挙でリーダーとなるべきことは誰にでも明確で、ベングリオンとシャレットの間には緊張感が走った。実際に政府には二人のリーダーが存在し、ベングリオンが企画して許可した敵地での軍事活動は、全て首相のシャレットには知らされていなかった。

 しかしこれだけが次の総選挙が大騒ぎとなる原因ではなかった。総選挙の数週間前に、イスラエル・カストナーがマルキエル・グリンワールドを侮辱罪で訴えた判決が、イスラエルの市民を騒がせることとなる。

 カストナーはナチの支配下にあったブタペストに於いて、救助委員会のメンバーであった。彼はユダヤ人を救うためにナチと接触し、ハンガリーから出発した1,684人のユダヤ人を載せた列車を組織し、最後にスイスに到着することとなる。大戦後に彼は戦争裁判で訴えられたナチ戦犯の為に証言した。

 1947年にカストナーはイスラエルの地に移住し、イスラエル独立時には商業・工業省の役割を得、この総選挙ではマパイ政党の立候補者の一人であった。1952年末に新聞記者であったマルキエル・グリンワールドが、カストナーをナチの協力者として非難した。カストナーはグリンワールドに対して侮辱罪を上訴することに圧力をかけたが、グリンワールドの記事内容が侮辱罪かどうかの疑問の代わりに、記者の弁護士であったシュムエル・タミールは、ユダヤ人救済への努力、カストナーの性格とマパイの役割に関する論争へと変えることに成功した。

 裁判ではマパイ政党が、ナチからヨーロッパのユダヤ人達を救うために十分な活動をしなかったと主張された。ベギン率いるヘルート政党はこの裁判を理由に政府へ不信任案を提出し、その対応としてシャレットが首相の辞退を発表して総選挙へと転がっていく。

 1955年6月にベニヤミン・ハレビ裁判官は、カストナーが「悪魔へ魂を売った」とし、ナチの協力者であったと判決を下し、総選挙へ油を注ぐこととなる。カストナーは控訴したが、その後の裁判判決を見ることは出来ず、1957年に最右翼地下組織メンバー3人に殺害されてしまう。

 第三回国会総選挙の中心にあったテーマの一つは、マパイ与党の汚職に対する主張であった。この政党は既に独立前から25年間もイスラエル全国のユダヤ人居住区のリーダー役を担っていた。イスラエル国内の生活が安定し、国の最大の難関を通り抜けた後は、マパイ政府の汚職にクレームする声が出始めた。密なマパイの支配は、国政の運営に関して他のグループの関与を許さなかった。

 マパイと関連していた役人達は、政党への忠誠心だけではなく、国と政党への忠誠心が混ざっていた。仕事、住処、出世や地位を得る可能性は、マパイ政党の中間レベルにどれだけ近いかに依存しており、労働者の代表であったイスラエル労働連盟も支配し、自身の経済を運営する強大な雇用人でもあった。

 コネに関するクレームが、与党のマパイ政党への運営に多大な批判を引き起こした。「屈辱のビジネス」事件とその結果暴露した淀んだ関係、批判を受けた政党間同意、ドイツの賠償金支払い契約、党員の新しい帰還者に対する横柄な態度、これら全てが汚職の主張を助長させる下地を作っていった。

 1955年の総選挙で突出した変化はマパム政党で起こり、最大で古株のマパイの最大野党でもあった。左翼陣営はソ連社会主義のイデオロギーとマパムという政党名も守った。それに反して活動家陣営は「労働統一」という名を取り戻した。

 最終的にこの2政党は、第二回国会総選挙のマパム政党の時より多くの議席を確保することとなったが、総選挙では以前のような存在感を失ってしまい、主な戦いはマパイと一般シオニスト間で起きた。

 全国に散らばったイェディオット・アハロノット紙の記者達は、投票所の開始で起きた問題を報告している。テルアビブでは投票所が1時間遅れて開始し、理由は「バスの運営の遅れとタクシー不足。選挙委員会会長やメンバーが遅刻したため、一部の投票所は朝の7時になっても未だ閉鎖されたまま」と伝えている。

 テルアビブの市立選挙委員会会長約100人が、投票所運営に必要な資料を受け取りに選挙委員会事務所に前夜現れなかった。一部は夜中に資料を受け取らなかったと主張し、投票所を開けることは出来ないと訴えた。しかし公式な開始時間の約1時間半後の朝の7時半までには、全ての投票所は稼働していた。

 セキヤ仮居住区(今日のオール・イェフダ)では、中央選挙委員会が投票スタンプを現地に送ることを忘れてしまい、投票所を開けるまでに時間が遅れた。ハイファでは、適切な証明書を持った各政党からの監視備品がないなどのテクニカル的な問題が報告されている。しかしハイファでは有権者のせいでも遅れていた。或る投票所では、開いた窓の正面に投票場所が設置されたという理由で投票することを有権者が拒否した。中央選挙委員会のメンバーが現地に呼び出され、窓を閉めて分厚い紙で窓を覆うように指示した。

 エルサレムでは、選挙委員会長の到着して投票が開始するまで、有権者達は1時間半以上待たされた。当時の新聞記事によると、「新規帰還者やユダヤ教徒が住む居住区で投票が活発。ネトゥレイ・カルタのプロパガンダは反対の結果を生み、多くのユダヤ教徒達が投票所へ向かっている」。

 テルアビブでは朝の8時半までの投票は、南部と比較すると北部居住区と中心街でとても多いと伝えている。もう一つのケースでは、あるカップルが選挙の為に海外旅行を1週間ずらし、投票所の外にタクシーを待たせて投票後そのまま空港へ向かった。

 レホーボット地区警察長官とイズハル・スミランスキー議員は、「レホーボットでの最初の投票者」のタイトルを競い合ったが、しかし投票所が開く前の朝5時45分に到着してみると、既に違う人が先に立っていた。レホーボットの最初の投票者は100歳のハヤ・ドールドンさんであった。

 ガリラヤの居住区では、早朝の3時から「公共機関作戦」に多くの人が集められていた。一部の居住区の市民は、投票所に到着する為、又は投票結果を伝達する為にロバに乗っていたが、ツファット地域の政党活動家達がボランティアで有権者達を投票所まで送り迎えし、有権者全員が投票できるようにした。「ガリラヤに於ける左翼政党への強い支援は、有権者を投票所まで送り迎えした地域の自動車という形でやってきた」。

 エルサレムのメア・シャアリーム居住区の投票所は、最初ルーマニア教会の建物に設置された。ユダヤ教徒達が教会内で投票することを懸念したため、投票所は居住区内のユダヤ教徒神学校の建物に移転された。ネトゥレイ・カルタのプロパガンダに対しては、ユダヤ教徒ラビの殆どは選挙を支援した。グール派最高ラビもエルサレムで投票し、モインジェニッツ最高ラビは、「選挙に行かない者は、ラビの食卓に相応しくない」と生徒達を忠告した。

 1955年には19政党が立候補したが、12政党のみが第三回国会に選出された。マパイは5議席失ったが、殆どの票を得て40議席を獲得して勝利した。労働統一政党は10議席、マパム9議席で、この2政党が獲得した議席数は前回の総選挙でマパム政党が獲得した議席数より多い。

●第三回国会:

マパイ 40議席

ヘルート 15議席

一般シオニスト連合 13議席

国家宗教戦線 11議席

労働統一 10議席

マパム 9議席

聖書宗教戦線 6議席

マカイ 6議席

進歩党 5議席

イスラエルアラブ民主政党 2議席

前進と労働 2議席

農業と開発 1議席

 連立内閣への交渉は最も長期間の3か月を要した。11月にベングリオンは、マパイ、国家宗教戦線(その後政党名を国家宗教政党と改名)、労働統一、マパムと進歩党を含んだ新政府を樹立した。

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