エルサレムのプロテスタント墓地に葬られている人々


 最初の物語は19世紀前半で、聖地に移住し、約150年後の次世紀へ向けて準備をする目的で、様々な組織がエルサレムにやってきた。それらの殆どがプロテスタント団体であり、全てがつながる町で終末の予言が実現する、救世主(イエス)が向かってきていると信じていた。イスラエルを支配していたオスマン帝国が、帝国内の内部改革の一部として、外国人が聖地へ訪問しに来ることを容易にしていた事実も助けとなっていた。

 このようにエルサレムで1841年に、イギリス人とドイツ人で構成された、キリスト教プロテスタント、イギリス・プロセイン司教が設置された。その筆頭にはアレイサンダー初代司教がおり、ヘブライ語でも飾られた墓地に関しては後述する。その後彼はゴバット司教と交替した。1847年には、ゴバット司教がシオンの丘の南西部の土地を購入し、同団体メンバーのためのエルサレムにおける墓場を建設した。その数年後にはゴバット司教の名前が付いた学校も建設された。今日そこには、緑と静寂さに囲まれた領地に、イスラエルの地学習用のアメリカンカレッジが建っている。

 プロテスタント会衆を研究しているシールリー学者と共にこの墓地を訪問し、過去のエルサレムのセレブに関して聞いた。アメリカンカレッジの屋上からは、領地内の素晴らしい中庭、町の南部や西方が展望できる。ヤミン・モーセ、キングデービッドホテル、シネマテック、ゲヒノムの谷、スルタンの池などが真下に見える。この建物には、イスラエル軍が使用していた有名なケーブルカーがつながっていた。1948年以降エルサレムがイスラエルとヨルダンとで二分されていた時に、この場所とゲヒノムの谷を挟んだ対岸のシオンの丘ホテルがケーブルカーで接続されていた。

 この屋根から1994年にはスティングのコンサートを見て、その1年後にはスルタンの池でもたれたニール・ヤングのコンサートを見た。この場所の位置と角度とサウンドが最高であった。エルサレムの城壁を背景に、スティングがMad About Youを歌う事を想像してみれば、約3千年前にここで起きたダビデのバテシバの恋愛物語を描写しているようだ。これが1990年代のエルサレムで学生だった頃の人生であった。

 約30年前に軍隊での兵役中には旧市街にいて、歴史家で新聞記者であったメロン・ベンベネスティ氏の素晴らしい本を読んだ。この本はエルサレムの墓地を素晴らしい形で調査していた。最初の章でプロテスタント墓地に付いて書かれており、「初心者のための墓地」と彼は呼んでいた。

 鍵を受け取って墓地の入口を開き(要事前予約)、この墓地の創設者であるサムエル・ゴーバット司教の墓地の近くに立ち、彼は1799年スイス生まれで、丁度ナポレオンが聖地を訪問した同じ年であった。ゴーバット司教はエチオピアで宣教師として活動を開始し、1846年にエルサレムのプロテスタント司教に任命され、その役割を30年以上も務めた。司教であった時にこの場所にあった学校も含め、イスラエル全国に学校を建設した。ゴーバット司教の墓から数メートル先に、前任者であった初代司教で、キリスト教に改宗したユダヤ人のミハエル・シュロモ・アレキサンダー司教の墓がある。彼の墓石にはヘブライ語の聖句も記されている。

 ゴーバット司教の墓から10m南下すると、エルサレムに住んでいたドイツ人宣教師ヨハン・ルードビッグ・シュネラーの墓がある。シュネラーの名前は、特にエルサレム付近に住んでいる者や、軍隊で兵役にいた者の殆どは知っている。

 シュネラーは妻と共に1854年にエルサレムへ到着し、ゴーバット司教がいた時代であった。彼が送られた宣教の改善には失敗したが、夫婦は長男の死を乗り越えた後にエルサレムに残ることを決心し、ほかの子供達がここで生まれた。

 1860年にシュネラーは、虐殺から生き残ったマロン派のクリスチャンの子供達を数人救い出し、「シリア孤児院」を建設し、その建物はその後、イスラエル軍の基地であるシュネラー基地と変わった。2008年にこの建物は居住地と変わっている。彼の大きな高い墓石を見逃すことはない。

 エルサレム市民ならば、エルサレムのネビイーム通り58番地にある「ベイト・タボール」を知らない者はおらず、もし知らないなら恥を知ることになる。今日この建物は神学論を学ぶスイスカレッジとして使用されているが、創設者でありここに住んでいたのは、エルサレムの研究者であり創設者の一人であったコーナード・シック学者である。

 ドイツ生まれのシックの学位と才能のリストは長い。ダビデの町のシロアムの池碑文発見を含んだ考古学者、エルサレムの地図を描いた地図製作者、町の木製模型の建設者(ヤッフォー門のダビデの塔正面にある、メシア教会にシックの模型博物館がある)、メア・シャアリーム、国内の学校や修道院を設計した建築家、歴史家、イスラエルの研究者である。しかしこれら全てのものの前に彼はエルサレム愛好家であり、この町の為に様々なことを寄付してきた。シオンとはエルサレムの代名詞であるが、シックはシオニストであったというのも罪ではないと思われる。

 彼の死の5年後である1896年に、シックは名誉学者の称号を受けた。彼の妻フレドリッカは、彼の死から2週間後に亡くなり、この墓地で二人寄り添って眠っている。シックとキリスト教、ユダヤ教とイスラム教会衆との強い関係と、彼のこの町への偉大な寄付により、彼が亡くなった時には多くの者が哀悼の意を表しに来た。

 シックの墓石の近くには、1819年にドイツで生まれたシャーロッタ・ピルツが埋葬されており、大家族であった7人目の娘として生まれた。ピルツは偶然にディーコネス(プロテスタント看護修道院)と出会い、1853年に公認試験に合格し、教師としての免許を獲得した。

 同年にピルツはエルサレムへ派遣され、町に病院とドイツ語学校を建設した他のシスター達と合流した。直ぐにピルツは両施設の責任者となった。校長としてエルサレムの子供達に対する学校の影響力を拡大することに成功し、新しい建物の建設によって病院の拡大にも成功したが、全ては彼女が母国ドイツで行った募金活動のお陰であった。

 募金活動で残ったお金で、彼女は旧市街の外の土地を購入し、当時は旧市街から離れて危険であった場所とされていて(今日では新市街のキングジョージ通りとベンユダ通りの角)、1868年にその場所に「タリタ・クミ」という名前で知られている女児用の孤児院で学校の寮を建設した。この建物は、旧市街の外に建設された初めての建物の一つとして考えられている。ピルツは1903年に亡くなり、ここに葬られた。

 墓地の南東部には、幾つか階段を上っていくが、周りの白い墓石に対して真っ黒な墓石が突出しており、特別にシナイ半島から持ち込まれた花崗岩の墓石で、そこには英語でフリンダース・ペトリ―と記されている。年代も無く、生命と不死を象徴するエジプトの象形文字☥だけが記されている。

 彼はウイリアム・マティオ・フリンダース・ペトリ―教授で、イスラエル考古学の先駆者であり、天才でもあったが、少々変人でもあり、なぜかは直ぐに分かる。ペトリ―は1853年にロンドンから南東のグリニッジ付近で生まれた。彼はエジプト学者としてエジプトで約10年間発掘し、地層によるテルの年代測定や、陶器の年代を特定する方法を開発し、これは今日まで使用されている。

 彼は、エジプトの砂漠の灼熱の日でも、彼の生まれ故郷であるイギリスの伝統に沿った食事を摂る為にスーツを着ることを厳守し、銀製の食器を使用して木製の机をしっかりと用意した。食事中だけスーツを着るというのは正当であると一部は考えるかもしれないが、彼は素っ裸で発掘するのを習慣としていた。また発掘中にビスケットの箱から作ったカメラを自分の仕事用に利用し、時間を節約する為に両手に鉛筆を持って図面を描いていたと伝えられている。とても興味深い人物であるには違いない。

 イギリス基金からイスラエルの地を研究せよと命令を受けた時には、ネゲブ砂漠の旧約聖書に関連したテルの年代測定や認識を彼の方法で実行することを目的として聖地にやってきた。その後略奪されてエジプトに戻り、聖地にはイギリス委任統治時代になってから再度戻ってきた。

 1937年に引退し、エルサレムに移住してここで亡くなって埋葬された。ペトリ―の人生の話のように、彼の死後も妄想的にしか聞こえない。彼は創造主と出会う前に、妻に対してもし何か起きたならば、彼の首を切り落としてフォルマリン漬けにしてロンドンへ検証させる為に送れと依頼し、もしかすると彼の天才という種類の研究用、又は頭蓋骨の形による人間の進化を種類分けする為であったのかも知れない。実際にはペトリ―は第二次世界大戦初期に死亡し、この遺言を複雑なものとしてしまった。当時は人種理論も話題となり、彼の頭はロンドンの外科研究所地下室のどこかで忘れ去られてしまった。1989年にこの話はまた妄想的な方向転換をし、考古学者のシモン学者からこの話を聞いた時には信じられなかったが、読者はどう思うか耳をかっぽじって良く聞いて欲しい。

 このようであった:シモン学者は長年エルサレムで発掘し、1980年代にはロンドンのPalestine Exploration Fundで責任者としても従事していた。2012年にシオンの丘のこの墓地で、ペトリ―死後70周年の記念会にも参加していた。シモン学者は、1989年にロンドンのRoyal College of Surgeonsの責任者であったキャロリン学者から電話を受け、フォルマリン漬けの頭を見に来いと誘われた。それがペトリ―のものだとは誰も知らなかった。

 シモン学者は、学者として誰もが尊敬するペトリ―であると疑わなかった。ペトリ―の生前の写真を様々な角度で用意し、ペトリ―の死後50年も経過してからの検死を行う目的で出発した。フォルマリンの容器はアシスタントが持ってきて、首が皿に乗せられて驚きを隠せないシモン学者の前に置かれた。アシスタントはシモン学者に対し、首の切り口を見たいかと聞いてきた。シモン学者は生前のペトリ―の写真を出し、一つだけ違和感があった:ペトリ―は末期には髪の毛がふさふさとしていて、目の前に置かれている生首と同じではあるが、しかし生前は白髪であったのに生首は茶色になっている。もしかすると50年間も薬漬けにされていた影響で化学反応を起こしたのかも知れない。

 しかし検死はまだ終わっておらず、ペトリ―の写真にはおでこの右側に目立つ傷跡があり、生首にもその傷があった。鼻の形は少々異様であったが、多分容器の中で頭が鼻側に倒れてしまい、長年かけてこのような形になったと思われる。確認は終わった。

 シモン学者と連絡を取り、生首の写真を送って貰った。彼によると誰がこの生首の写真を撮影したのかは分からないが、シモン学者はこの写真をエルサレム研究者であったエリー教授から、また彼はゼエブ教授からそれを貰ったと説明していた。

 その次にはイギリスの考古学者であったジェームス・ラスリー・スターキーの墓石へ向かい、彼がこの場所を購入したのは、今日「ラキシの手紙」と呼ばれている碑文を発見した、テル・ラキシの発掘調査隊の筆頭者であった時だ。彼はその専門的な道を、最初はエジプトの発掘でペトリ―の元で学び、1920年代に彼と共にイスラエルの地の発掘に加わった。ラキシの発掘は1932年から1938年の間に実施した。

 1938年1月10日に、ラキシからエルサレムへ移動し、ロックフェラー博物館の落成式に参加した。当時はアラブ人の武装蜂起、1936~1939年のアラブ人によるユダヤ人襲撃の時代であり、ベイト・ジョブリンとヘブロン間の道路でアラブ人武装集団によって止められ、彼はイギリス人であったのにユダヤ人と誤認された。頭を2発撃ちぬかれた彼の遺体がその後発見された。エルサレム研究者会衆の間に重い悲しみが下り、落成式も延期となった。当時の記事を2枚発見したが、彼を殺した犯人が2名逮捕され、処刑されたと書かれている。アメリカンコングレスの図書館では葬式の写真も発見し、シオンの丘での撮影であったのを確認した。

 シオンの丘の墓地には、エルサレム市民の多くが埋葬されており、一人一人が各々の物語を語ってくれるであろう。ここにはイギリス委任統治時代に聖地で死亡した英国王室軍の兵士や、1946年にベギン首相の地下組織が爆破したキングデービッドホテルで殺された兵士達も埋葬されている。

 最後にこの墓地の訪問を素晴らしい形でまとめてくれる、イギリスの詩人ロバート・グレイブスの言葉でくくろう:

 「死者を復活させるのは大きな魔法ではない。

  完全に死ぬ者は少数である。

  死者の炭火に息を吹きかければ、生きた炎が燃え上がる」。

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