ウガンダの代わりにヘルツェルがモロッコを「ユダヤ人国家」とする計画があった

 ユダヤ人をアフリカ東部に入植させる「ウガンダ計画」は歴史の教科書でも勉強する。しかし1903年にイスラエル生みの親であるテオドール・ヘルツェル(シオニズム創設者)が暗号の手紙の中で、ロシア系ユダヤ人をモロッコに入植させる「モロッコ計画」と呼ばれた代案に関しては殆どの人は知らない。

 同年4月にイギリス植民地臣であったジョゼフ氏は、ヘルツェルに対してイギリス領土のアフリカ東部、ケニアにユダヤ人を入植させることを提案した。シオニスト会議でこの提案は「ウガンダ計画」と呼ばれ、最終的に「イスラエルの地のみにユダヤ人は住む」という理由でこの提案を退けた。

 その数日前にはロシアでユダヤ人へのポグロムが発生し、ヘルツェルはユダヤ国家を推進する必要性に圧迫されていた。スイスのバーゼルで第六回目のシオニスト会議で彼は自分の計画を提示し、一時的な受け入れ地としてウガンダに独立国家を造るという提案のせいで、シオニズム運動は二分される恐れまで出てきた。

 この決定は多くの中心人物の不快感を買い、大きな動揺を生み、ヘルツェルに対する大きな批判まで生み起こした。この第六回目のシオニスト会議を「涙の会議」と呼称するようになる。翌年の第七回目シオニスト会議でウガンダ計画は拒否された。

 シオニスト会議の数週間前に、ヘルツェルはモロッコ南西部のホース・バレー地域の違う場所にユダヤ人国家を建設する提案を考えていた。1903年7月20日、シオニスト会議の1か月前にヘルツェルは、イギリス人の活動家で彼の近い友人の一人であったジョゼフ氏に手紙を書いている。

 シオニスト活動家達や極秘裏に手紙を書いていたので、その手紙も暗号で書かれており、世界シオニスト連合にも保存されている、「ヘルツェル暗号書」がヘルツェル・アーカイブに保存されている。これらのような手紙にはビニヤミン(ヘルツェルのヘブライ名)でサインされている。この手紙のテーマは、反ユダヤ主義のイギリス人新聞記者アーノルド・ホワイト氏に関しての内容で、手紙の中では「ブラック」と呼ばれている。

 アーノルド氏は、特にロシアからイギリスへのユダヤ人移民を中止することを要請していた中心的な活動家の一人でもあった。彼はロシア皇帝にまで会いに行き、19世紀末に皇帝に対してアルゼンチンにユダヤ人居住区を造ることを提案し、「イギリス帝国を劣化させ、イギリス国内から破壊しようとしているユダヤ人難民」の流れを変えようとした。

 1903年にジョゼフ氏は世界中にユダヤ人移民地を捜すことに最大の努力を費やした。ヘルツェルは今回公表された文面の中では、アーノルド氏の反ユダヤ主義の言葉をシオニスト・プロジェクトの活動力に変えようと考えていた。

 「アーノルド・ホワイト(コード名ブラック)がロシアに対し、モロッコ(コード名ロッキー)に入植することを提案させるように仕向けるべきか?条件は早かろうが遅かろうが大国の交渉を受けることになる。今日イスラエルの地はどの大国にも属していないが、4か国が意欲を示しており、サムソン(アフリカ東部)より良いオプションと思われる。ブラックにはこの提案が私から出たものであるという事を絶対に知られてはいけない」。

 「モロッコ国内やアフリカ北部には多くのユダヤ人人口が集中していた」と世界シオニスト連合会長のヤコブ氏は語った。「ヘルツェルはとても実用的な人であった。主に東ヨーロッパでポグロムを経験して追放されたユダヤ人問題を直視し、もう一方でユダヤ人センターやユダヤ人会衆が繁栄しているモロッコを見た。この二つを結びつけることは、ウガンダと結び付けるより当たり前に見えたと思われる。結果的にヘルツェルもシオニスト会議やシオニズム運動全体もこのテーマには中間解決はないことを理解し、この問題にはシオンとイスラエルへ真っ直ぐ進むことであると理解した。その後ヘルツェルは自分の代案の間違いを認めている」とも述べた。

 ハイファ大学ヘブライ語学科のヨセフ教授は、モロッコ計画はアーノルド氏よりずっと前にティベリアの二人の兄弟バルーフとヤコブによって提案されており、二人の両親はモロッコ出身で当時シオニスト活動家としても有名であった。

 「バルーフ氏は二人の名前で、ヘルツェルが亡くなる数か月前にヘルツェルに会っており、モロッコ国王関係者や政府関係者に近かったラビ・ヴィデエルにも手紙を送っており、ホース・バレーでユダヤ人の独立テリトリーを建設する提案であった。当時モロッコ国内では市民戦争や大きな混乱が起きており、この提案は実効的なものではなかった。ラビ・ヴィデエルは国内政治にとても熟知しており、この提案はモロッコの国内状況を考慮していない妄想的なもので、提案書はそのまま机にしまっていた。その後ラビの孫がこの文書を発見し、初めて公開したものとなった」とも述べている。

 1909年にバルーフ氏が書いた手紙には、「まだヘルツェル博士が生きていたこの5年間、彼の教えの名誉についても言及しなければならず、モロッコ王国に於けるユダヤ人国家の提案を彼に提示し、彼はこの提案はとても正しいもので注意を引く必要があると回答し、その数日後にもう一度受けた回答では、この提案は会議する為にシオニストの運営委員会に提出され、その後前述した提案に関して何も連絡がなかった」と記しており、「シオニズムに起きた大きな意見の相違のせいかも知れない」と自分達の想像も記述している。

 「幸運にもヘルツェルの突然の死が、この計画やその他に提案された多くの計画を埋葬させることとなった。例を挙げるとイラクやシリアにもユダヤ人の一時的国家を建設するという計画だ」とヨセフ教授は語った。

 「1820年には、アメリカ合衆国の入植されていなかった広大な地域に、ユダヤ人の独立テリトリーを建設するという計画もあったことには驚くであろう。誰もシオニズムに関して考えてもいない前だ。カナダは実用的ではなく、何故ならテリトリーはイギリスが支配する場所でなければならなかった。イギリスの観点からすれば、ユダヤ人をロンドンからより遠く引き離すのであれば、どんな提案でも祝福されるものであった」と教授は述べた。

 前観光大臣で、モロッコのユダヤ人会衆会長のサージ氏は、この計画に関しては知らなかった。「モロッコでユダヤ人国家?初めてそんなキチガイな話を聞いた。誰もそんな妄想的な提案に関して聞いたことが無い。自分の家族は1492年にモロッコからイスラエルの地へ戻ってきており、スペイン追放以来の色々な話を自分は知っているけれども、そんな話は聞いたこともない」と語っている。

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