こうして第二神殿は建設された

 ヘロデ大王統治18年目にエルサレムの住民の前でドラマチックな宣言をする。バビロン捕囚からの解放後にモリヤの丘に建設された古い神殿を解体し、そこに新しい神殿を建てるということを発表した。

 既に数千人の同胞を殺害されたユダヤ人達は、ヘロデ大王が自分の名声のためだけに最も聖なる場所を破壊するのではないかと疑った。彼らが懸念したのはヘロデ大王は古い神殿を破壊しても新しい神殿を完成する意図はなく、神への奉仕が出来なくなってしまうことであった。

 歴史家であるヨセフス・フラビウスによると、古い神殿を解体する前に全ての建築材料を準備するという約束でユダヤ人達を安心させた。タルムードによると、ヘロデ大王とユダヤ教賢者のババ・ベン・ボッタの両者間で極秘に交わされた友好条約が関係していると書かれている。ヘロデ大王は賢者との面談で多くのユダヤ人に暴力を振るったことを後悔し、その罪を償って世界への光となるように荘厳な新しい神殿を建てるということであった。

 カイザリア、マサダやヘロディオンなどを建設した突出した建築家であるヘロデ大王と、ユダヤ民族が相互に手を取り、歴史的な事業が始まるきっかけともなった。エルサレムに当時あった謙虚で小さい神殿を、人類の心に深く刻み込むような壮大な祈祷所へと変えていくことになる。

 ヘロデ大王は数千の荷車、牛、クレーン、車輪、建設道具などを準備し、早急に事業が開始された。ローマ時代の優秀な建築家達以外に、数万人のユダヤ人労働者や、聖所建設に関わった数百人の祭司達も共に事業に参加した。

しかしこの大事業の失敗をも誘引しかねない最大の問題があった。神殿の建設予定地が狭くて急こう配であり、ヘロデ大王が想像していたような神殿を建てるほどの敷地もなかったことである。

 この問題に対するヘロデ大王の解決案はとても大胆で贅沢であった。中央に神殿を建設するために必要な広大な敷地をサポートする大きな城壁の建設である。この計画におけるもっとも重要な要素は巨大な石を利用することにあり、それらの壁が神殿の土台を確固たるものにした。最低でも数トンの重さがあり、最大では数百トンにも達する。

 セメントを全く使用せず、石だけの重量で安定させて一枚岩のような強度を持たせる。現在でも見られるエルサレムの採石場跡では、2~4mにもなる石が発見されている。

 ダビデの町で発見されたものの中に、斧などの原始的な道具があるが、現在でも使用されている砕石方法が使用されていた。北部の採石場から数百トンの石を運んで設置するということは、とても正確な計画、最新の技術と主に絶え間ない重労働によって成し遂げられた。

 これらの石は牛に取り付けられた荷車に載せたり、直接車輪を両側から取り付けて運搬した。巨大な石は丸太が置かれ、多数の牛や労働者によって運ばれていった。上に持ち上げるにはクレーンや斜道などが利用された。

 石の設置はとても正確に行わなければならず、「ヘロデ石」と呼ばれるパテントを使用した。石の周りを縁取ることにより、下の基礎石から数センチ奥まった場所、ピラミッド状に置かれ、両側の石に対しては定規のように真っ直ぐとなるように置かれていった。

 城壁の角は相互にかませることによって強度を増し、今日に至るまで聖地で起きた強い地震にも耐えてきた。採石、運搬、持上げと設置、全てが交響楽のようにタイミングよく正確に行われていった。しかし失敗もあったようで、発掘現場では建設中に上から落ちた石が溝にはまったまま埋められていたのが発見されている。

 自然の岩盤まで掘り下げ、そこに基礎石を敷きつけて当時の道路から30mの高さまで壁が建設され、神殿区域の広さは当時では計り知れないものであった。現在の嘆きの壁は西側のごく一部であり、西側の壁だけで長さが500m近くあった。神殿区域内の広さは14万4千平米であり、サッカー場30個分に相当する。

 しかしこれらの壁も枠であるに過ぎず、最も重要であった神殿建設の為に朝から晩まで働いていた。言い伝えによると土砂降りの真夜中でも建設を止めなかったと言われている。そんな状況でも金曜日には仕事もゆっくりとなり、土曜日には全く仕事はなされなかった。エルサレムに安息日が訪れたのである。

 嘆きの壁の近くにある発掘現場で、ローマ人が神殿を破壊した時に最初に落としたであろうと思われる城壁の上にあった角の石が発見されている。そこには鮮明にヘブライ文字が記されており、「平日と聖日を分ける角笛の家」と書かれている。当時の歴史家であったヨセフス・フラビウスによると、祭司がラッパを持ってこの場所に立ち、安息日が始まったことを告げ知らせるために吹き、それが聞こえたら皆仕事を止めたということであった。

 壁とモリヤの丘にあった空間にはとても大きなアーチが建設され、神殿を建てるための広大な土台がその上に建設された。この広場には世界各地から祈祷するために信者が集まり、彼らが立った床はローマ時代の綺麗な装飾が施されていた。

 ヨセフスによると、神殿区域の床は色とりどりの石によって作られていたとのこと。神殿区域内から出る土砂のフィルタリング・プロジェクトによって、色々な色が付いた石やタイルが多様な形状で発見されている。これらのタイルの復元はパズルのようであったが、幾何学模様や輝くような色の石が使用されていたことが判明した。

 神殿区域内の周囲には柱廊があり、最大のものは王の柱廊と呼ばれ、現在そこにはエルアクサ寺院が建っている。バジリカ式の建物は古代の聖地で最も大きな建物でもあった。ヨセフスはこの建物のことを「柱の森」と表現しており、全部で162本の柱が使用されていた。柱は一つの石から作られており、3人の人達が両手を広げて抱えるほどの太さであった。

 王の柱廊は民間用として使用され、神殿の近くにあったサンヘドリン(ユダヤ最高議会)が貸し出したお店が設置されていた。この柱廊に入るには西側の壁に作られたロビンソン・アーチを上らなければならず、そのふもとには繁華街があった。

 ロビンソン・アーチはこの繁華街通りを邪魔することなく横切れるように建設され、神殿へのメイン・ゲートは南側にフルダ門と呼ばれたゲートが二つ作られ、入口と出口を決めることによって大勢の参拝者の流れがスムーズになるようになっていた。

 フルダ門への階段はとても広く、参拝者に畏敬と荘厳な雰囲気を醸し出した。階段の幅を一段ずつ変えることにより、参拝者が聖なる場所へ落ち着いて尊敬の念を持って上っていけるようになっていた。門を通り越して広場に出ると、参拝者の目には広大な敷地、柱廊、前庭、装飾された門や、頭にダイヤの冠を被ったような神殿が空まで届いているような素晴らしい景色を見たはずである。

 神殿の前方は広く、後方は狭くなっており、古代の人達はエルサレムのシンボルであるライオンがたてがみを立てて座っているように見えたであろう。金でできたぶどうの蔓が入口から屋根までつたっており、金によって飾られた王冠のように見えていた。

 この神殿建設には、ヘロデ大王の指揮の元にユダヤ人の労働者によって、記録的な速さの1年半で完成させた。自分達の手で建設したエルサレムの住民は、この神殿が当時の壮大で荘厳な建築物の一つであったことを知っていた。完成から約89年後にこれを破壊したティトス将軍でさえも「人類の創造の栄光」と表現し、「ヘロデ大王の建物を見なかった者は美しい建物というものを見たことがない人」と後世に言い残されたほどである。

 この新しい神殿には数万人のユダヤ人や異邦人が世界中から参拝し、世界最大の聖地を見るために集まった。目に見えない、姿形の無い神の為に作られた神殿は、全ての人に門が開けられ、全世界の民族のための祈り場所でもあった。

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